- 2024-9-2
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さて、前回の伏線の回収に入ります。おっと、これも倉庫のような建物ですね!荷物を吊り上げるクレーンと、各階にそれを搬入する扉がある建物です。
Pferdemarktから入っていく道は Mühlenstrasseと名付けられています。倉庫の向こう側にある建物・・・
道路の右手を進んでいくと建物の切れ目に橋が見えます。
端からの眺めはこんな感じなのですが・・・
その逆側はこんな感じ・・・そう、左手の建物は水力を利用した製粉所なのです。
Mühle(製粉所)
グラボーの偉大さ:1717年、製粉の名人ハルトヴィッヒ・ボルブリュッゲが、メクレンブルク公カール・レオポルトからプファーデマルクトの土地を世襲契約で譲り受けた。
この地には 14世紀からトウモロコシ粉挽き工場があったという証拠がある。次の世代も事業を拡大し続けた。
1850年からは、小麦粉は遠くイギリスまで輸出されるようになった。1870年からは、メクレンブルク最大の製粉工場となった。最高級の小麦粉、飼料、肥料がここで生産された。
工場は 1951年に収用され、国有企業として操業を続けた。1990年以降、様々な経営者の交代があり、1998年に閉鎖された。彫刻:ブロンズ|アーティスト:ベルント・ストリーター
カール・ボルブリュッゲは、第5代世襲製粉業者でコンメルツィエンラートであったカール・ボルブリュッゲ(1820-1878)とその妻マリー(旧姓シュタインコプフ)の 4人兄弟の長男としてグラボウに生まれた。1870年から71年にかけての普仏戦争に参加し、後にパルチムの メクレンブルク大公ドラグーン第2連隊18 番の予備役中尉となる。シャルロッテンブルク貿易アカデミーで 工学を学び、1872年の夏学期には、後にザクセン・ベルリン軍団となるザクセン協会に入団した。学業を終えた後、家業の製粉業に加わり、1878年に亡父から会社の経営を引き継いだ。
カール・ボルブリュッゲは、メクレンブルクの古い弁護士家系のビュッツォウ出身のエリザベート・シュティプマンと結婚し、彼女との間にカール・ボルブリュッゲ(* Grabow 1893, † Bonn 1968)という息子をもうけたが、彼は 1899年に父親が6歳で早世した後、大公によって7代目にして最後の世襲粉挽き職人に任命された。
1831年に最新の技術を駆使した穀物・油・精麦工場として建設された工場群は、カール・ボルブリュッゲの技術管理の下、常に拡張、増設、改築が行われ、特に 1888年と 1897/98年の2度にわたる大規模な拡張工事では、その威力を発揮した。 1868年から 1870年にかけて、彼は 6つの水車を 3つの水車に置き換えさせ、1888年には駆動装置に蒸気機関を追加させた。1896年、Mühlenbauanstalt und Maschinenfabrik vormals Gebr. Seckが自動小麦製粉機を導入した。
この製粉所の操業は、ボルブリュッゲ家に大きな繁栄をもたらした。1880年頃、彼らはメクレンブルクで最も裕福な家族のひとつと評された。
前項の「1717年6月17日、カール・レオポルト公爵とハルトヴィヒ・ボルブリュッゲが、グラボーの製粉所の借地契約を結ぶ」・・・とあります。ほうほう・・・どういうことだろう?・・・この人の祖先で、世襲の製粉業者の権利を授けられた人だった訳ですね。
私が製粉所やその周辺のの写真を撮っていたら、私とほぼ同年代と思しきドイツ人の女性が話しかけてきて、この町や製粉所の歴史についていろいろ教えてくれました。なんでも、この方の相方はこの町の郷土史家で、著作も2冊あるとのこと!そりゃ読んでみなくては!・・・と、これがまた伏線なのです(笑)この女性は、この町の出身かと思ったらさにあらず、ブレーメンから移住してきたとのこと。東から西へ移住するのは普通ですが、西から東に移住・・・珍しいケースです。よほどこの町が気に入ったのかもしれません。