誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(74)★★★ グラァボウ Grabow -5-

★★★ グラァボウ Grabow -4- からの続きです

さて、前回の伏線の回収に入ります。おっと、これも倉庫のような建物ですね!荷物を吊り上げるクレーンと、各階にそれを搬入する扉がある建物です。

Pferdemarktから入っていく道は Mühlenstrasseと名付けられています。倉庫の向こう側にある建物・・・

道路の右手を進んでいくと建物の切れ目に橋が見えます。

端からの眺めはこんな感じなのですが・・・

その逆側はこんな感じ・・・そう、左手の建物は水力を利用した製粉所なのです。

Mühle(製粉所)

グラボーの偉大さ:1717年、製粉の名人ハルトヴィッヒ・ボルブリュッゲが、メクレンブルク公カール・レオポルトからプファーデマルクトの土地を世襲契約で譲り受けた。

この地には 14世紀からトウモロコシ粉挽き工場があったという証拠がある。次の世代も事業を拡大し続けた。

1850年からは、小麦粉は遠くイギリスまで輸出されるようになった。1870年からは、メクレンブルク最大の製粉工場となった。最高級の小麦粉、飼料、肥料がここで生産された。

工場は 1951年に収用され、国有企業として操業を続けた。1990年以降、様々な経営者の交代があり、1998年に閉鎖された。彫刻:ブロンズ|アーティスト:ベルント・ストリーター

カール・ボルブリュッゲは、第5代世襲製粉業者でコンメルツィエンラートであったカール・ボルブリュッゲ(1820-1878)とその妻マリー(旧姓シュタインコプフ)の 4人兄弟の長男としてグラボウに生まれた。1870年から71年にかけての普仏戦争に参加し、後にパルチムの メクレンブルク大公ドラグーン第2連隊18 番の予備役中尉となる。シャルロッテンブルク貿易アカデミーで 工学を学び、1872年の夏学期には、後にザクセン・ベルリン軍団となるザクセン協会に入団した。学業を終えた後、家業の製粉業に加わり、1878年に亡父から会社の経営を引き継いだ。

カール・ボルブリュッゲは、メクレンブルクの古い弁護士家系のビュッツォウ出身のエリザベート・シュティプマンと結婚し、彼女との間にカール・ボルブリュッゲ(* Grabow 1893, † Bonn 1968)という息子をもうけたが、彼は 1899年に父親が6歳で早世した後、大公によって7代目にして最後の世襲粉挽き職人に任命された。

1831年に最新の技術を駆使した穀物精麦工場として建設された工場群は、カール・ボルブリュッゲの技術管理の下、常に拡張、増設、改築が行われ、特に 1888年と 1897/98年の2度にわたる大規模な拡張工事では、その威力を発揮した。 1868年から 1870年にかけて、彼は 6つの水車を 3つの水車に置き換えさせ、1888年には駆動装置に蒸気機関を追加させた。1896年、Mühlenbauanstalt und Maschinenfabrik vormals Gebr. Seckが自動小麦製粉機を導入した。

この製粉所の操業は、ボルブリュッゲ家に大きな繁栄をもたらした。1880年頃、彼らはメクレンブルクで最も裕福な家族のひとつと評された。

前項の「1717年6月17日、カール・レオポルト公爵とハルトヴィヒ・ボルブリュッゲが、グラボーの製粉所の借地契約を結ぶ」・・・とあります。ほうほう・・・どういうことだろう?・・・この人の祖先で、世襲の製粉業者の権利を授けられた人だった訳ですね。

私が製粉所やその周辺のの写真を撮っていたら、私とほぼ同年代と思しきドイツ人の女性が話しかけてきて、この町や製粉所の歴史についていろいろ教えてくれました。なんでも、この方の相方はこの町の郷土史家で、著作も2冊あるとのこと!そりゃ読んでみなくては!・・・と、これがまた伏線なのです(笑)この女性は、この町の出身かと思ったらさにあらず、ブレーメンから移住してきたとのこと。東から西へ移住するのは普通ですが、西から東に移住・・・珍しいケースです。よほどこの町が気に入ったのかもしれません。

★★★ グラァボウ Grabow -6- に続きます

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