誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(69)★★ シュテンダール Stendal -5-

★★ シュテンダール Stendal -4- からの続きです

シュテンダールには周辺の小都市探訪の拠点として泊まったので、昼間はそういう町に出かけ、夕方になると帰ってきてここで夕食を食べるというパターンでした。実際、旧東独の小さな町は飲食店が絶滅寸前で、あったとしてもケバプ屋とかベトナムちゃんだったりします。シュテンダールは人口 39.000人前後の中小都市ではありますが、観光ばかりでなくそれなりに町として栄えており、いいレストランもあるのです!それを順次ご紹介していきます。

Hotel Schwarzer Adler

ドイツによくあるホテルの名前「Schwarzer Adler」です。他には確か Salzwedelで見たなあ(廃業しましたが)。他にも探すと結構出てきます。シュテンダールのそれは例の夕陽に映える St.Marienや Rathausに面して隣にあります。恐らくこの町で一番大きく、成功している歴史あるホテルのようです。公式ページはこちらにありますが、独語 Wikipediaにも掲載されています。名前の由来はメインの建物の屋上に取り付けられた「黒い鷲」の像であることは明らかでしょう。名前が先か像が先かは分かりませんが(笑)

Hotel Schwarzer Adlerは ザクセン=アンハルト州のシュテンダールにある史跡保護対象の<ホテルである。ステンダール旧市街のコルンマルクト通り北側のコルンマルクト5~7番地に位置し、ステンダール市庁舎と 聖マリア教会の真向かいにある。

歴史

ガストホフ・ツム・シュヴァルツェン・アドラー(Gasthof Zum Schwarzen Adler)は17世紀の初めにはすでに存在しており、現在も営業しているシュテンダルで最も古い宿である。1617年には放火魔グレーテ・ミンデがここに滞在したと記録されている。19世紀にはベッヒ家のものとなり、1843年には宴会場が近代化され、仮面舞踏会が開かれた。1863年、プロイセンの皇太子フリードリヒ・ヴィルヘルムがアルトマルクへの旅行中にシュヴァルツァー・アドラーに宿泊した。1897年、酒類販売免許をめぐる論争が決着し、ヘルマン・ベッヒに再び酒類販売免許が与えられた。聖マリア教会に近かったため、酒類販売免許には疑問が持たれていた。宴会場は1905年から1913年にかけて再び近代化された。
1920年、農民組合がホテル事業を引き継ぎ、現在は農民会館として運営されている。1925年にはコルンマルクト7番地の土地も取得し、馬車パブが経営され、25頭の馬のための馬小屋と2つの馬車小屋が建てられた。現在、ホテルの駐車場はそこにある。
1938年、ウィリー・ピヒトがこのホテルを引き継ぎ、シュヴァルツァー・アドラーという名前で再び経営するようになった。1940年頃、マックス・シュメリングがエキシビションマッチの際にボールルームでボクシングを行った。第二次世界大戦終結後、ホールは一時的に204人の難民の宿泊施設として使用された。1958年には、アルトマルク劇場の代替会場として使用された。1980年代には、映画館として使用された。
ピヒト家が1998年まで劇場を運営していた。その後、近代化が進み、2002年に再オープンした。大宴会場は2005年に修復された。
このホテルは、登録番号094 18015で、地元の史跡登録簿に 建築物として登録されている。

内装・調度品

ホテルには41の客室とスイートがある。アールヌーボー様式の大宴会場で知られる。シアタースタイルの座席を備え、450名のゲストに加え、150名のギャラリーを収容できる。また、小さなボールルーム(80席)と2つのホール(それぞれ80席と40席)もある。ホテルにはレストランと バーもある。

ワインを2杯呑んで、食事はヘルシーにサラダ!こちらのサラダはいろいろヴァリエーションや工夫があっていいですね~!日本でサラダっていうと殆どがキャベツの千切りにトマトがちょいと乗っている程度・・・単品でメインになりそうなものは例外的な存在です、残念ながら・・・食後にシュリヴォヴィッツ!チェコではベフロフカと並んで結構定番化していますが、これはドイツ産(Lautenbach:バーデン)の Obstlerのようです。

食後の腹ごなしにちょっと街歩き・・・夏時間でまだ真っ暗にはなりません。ホテルに戻りクラフトビールをもう一杯!こちらのレストランは次回ご紹介します。

★★ シュテンダール Stendal -6- に続きます

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