誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(54):★★ツェアプスト Zerbst / Anhalt -4-

★★ツェアプスト Zerbst / Anhalt -3- からの続きです

前回「さて、ここから一歩町の中に足を踏み入れた私は、思わず「えっ?そんな・・・」と言葉を失いそうになるような光景を見ることになります!」と書きました。その光景がこちらです。道路の右に連なっていた建物群は・・・どこに?

↑↑ これは下の航空写真で示せば、下の黄色の星印付近から上の星印の方向を見ているわけですが・・・右手には約 100m x 50mもの広大な空き地が広がっています。何故こんな一等地と思しき場所が、Plattenbauの住宅さえ建てられず、空き地のまま放置されているのか・・・よく見ると右手の方には瓦礫らしきものも見えます。

↓↓ ちなみに左手にある白っぽい屋根の建物は修復中のお城です。また、この写真を撮った時点では気が付いていませんが、正面の塔の左手にある教会と思しき建物はメインのホールの屋根が抜け落ちているのが確認できます。

↑↑ これは「alt-zerbst.de」というサイトから借用した画像(↓↓ も同様)で、概ね同じ方向を向いて撮った写真と推定されますが、今日空き地になっている右手には立派な建物が連なっています。また↓↓ は Breiteという通りに立って、塔の東から教会に向かって撮影した写真と推定されますが、やはり今日空き地になっている左手に家屋が確認できます。こういう建物・文化・空気・・・爆撃されるとそれがすべて無に帰してしまうのです。

なお「alt-zerbst.de」には、かつて Residenstadtとして栄えていた時代の美しい Zerbstの写真が数多くあります。是非ご覧ください。

Dicker Turm

Dicke Turm(太い塔・太っちょ塔)は、Zerbst/Anhaltの町にある中世の塔で、もともとは城塞塔だったが、15世紀以降、聖バルトロメイ教会の独立した鐘楼として使用されている。

厚い塔は、13世紀にツェルブスト城の要塞の一部として建てられたと言われている。1432年以降、防衛塔は近くの宮廷教会である聖バルトロメイ教会の鐘楼として使用された。1565年、塔は尖頭窓のあるルネサンス様式の鐘楼になった。棟梁はルードヴィッヒ・ビンダーと言われている。1701年、厚い塔の下の丸天井に、出版社兼書店のゴットフリート・ツィンマーマンによって書店が設立された。これは、1812年まで100年以上にわたって運営された。

第二次世界大戦が終わる数週間前(1945年4月16日)のツェルブストの町への空襲で、鐘楼とルネッサンス様式の切妻、すべての天井と一階上のオリジナルの十字型丸天井が破壊された。戦災を受けた後、塔はテント屋根で覆われた。この屋根は暴風雨で破損しました。1969年、厚い塔に新しい鐘が設置され、1998年から99年にかけて大修理が行われた。

画像はalt-zerbst.deからの借用です

St. Bartholomäi

聖バルトロメイ教会は、後期ロマネスク様式の十字架型平屋根のバジリカで、礫石で造られているのが特徴です。この教会は1215年に奉献された。

1300年、この教会は司教座教会に昇格した。このとき、祭壇は東側に長方形に拡張された。身廊は15世紀初頭に増築された。袖廊の幅で、聖バーソロミューは 4廊のホール教会になった。1517年、長方形の西側ポーチが建設された。1565年、教会の北東約 20メートルに Dickerturm(太っちょ塔)が増築され、独立した鐘楼に改造された。その後、何世紀にもわたって、教会は何度も改築・増築された。

1945年4月、第二次世界大戦が終わる数週間前に、バルトロメイ教会はツェルブストの町への空襲で大きな被害を受けた。1950年の修復の際、袖廊と身廊の間に壁が引かれた。それ以来、身廊は構造的に分離された廃墟となり、袖廊と 祭壇は教会として使われ続けている。

★★ツェアプスト Zerbst / Anhalt – 5 – に続きます

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