三十年前のドイツ(67):1989年 11月 23日(木曜日) Zicherie

三十年前のドイツ(66):1990年 10月 7日(日曜日) お散歩ドライブ Spazierenfahrenからの続きです。

この日は東京から出張で同僚がやってきたので、国境を見せるためにドライブに行きました。ありきたりのところでは面白くないので、「三十年前のドイツ(8):東西ドイツ国境の画像 -その5-」でご紹介した Zicherie-Böckwitzがどんな状況になっているかを見に行くことにします。ここは以前、同じく東京から来た同僚女史たちを案内したところで、実質的に一体だった「双子村」とでもいうべき Zicherieと Böckwitzが真ん中で分断されてしまった、いわば「ミニベルリン」的な場所です。

ここは Zicherieの少し手前ですが、国境の金網が撤去され、急遽整備した道路が開通しています。まだこの時点では「東から西には来ることができても、西から東にはビザが撤廃されていなかったので、西独の人は開いたとはいえ、まだ存在している国境の手前に立っています。また左手にプレハブの小屋が出来ていますが、東側から来る人への一時金の給付や簡単な入国手続きをする仮設事務所です。

さて Böckwitzer Str.を歩いて行き止まりになっていた国境に向かいます

国境線手前には大勢の人たちが並んでいます。町村の境界を示す看板には「この先は Böckwitz」と向こう側の町村名が既に入っています。

看板の、黄色に赤い斜線は「ここがその町(正確には Geschlossene Ortschaft)の境界」であることを示します。かつては Zicherieに斜線が引かれて、「Zicherieはここまで」と表示されていました。1989年の夏に同僚女史達を案内した際には「Zicherieはここまで」と「ブランク」が表示されています。もうすぐここに「Böckwitz」を入れるんだ!という意思表示だったのでしょうか?よく見ると東独側の監視塔の形が変わっており、時が流れたことがわかります。



今日はやじ馬が多いなあ・・・

お、やっと次のが来たぞ・・・

そもそも東独側の国境近くの町や村の住民は Unternehmen Ungeziefer(害虫駆除作戦)と称して、殆どが強制的に移住させられたので、Böckwitzの人口もそんなに多かったはずはないハズだし、ひょっとしたら無人化していたかも知れません。ということで、近隣の町や村から西に出てくる人なども含めて、1時間に3組くらいの「西独訪問者」が出てくる感じです。こちら側は皆拍手で出迎えるので、東独の人はちょっと照れる感じです。

西ドイツには「Ladenschlussgesetz 小売店閉店法」というのがあって、店舗の営業時間は細かく厳格に決められていました。平日は 18時まで、土曜日は 12~14時まで、月に一度だけ「Lnager Samstag 長い土曜日」として 16~18時までというのが一般的だったように記憶しています。日曜日・祝日は閉店で、飲食店の他に花屋は例外的に営業可能、また家具屋は顧客が品定めするために開店してもいいけれど販売は出来ない・・・等々。

上の看板は「ようこそ!我々ブローム(このあたりの行政単位の名前)住民は東独からおいでの皆様を歓迎いたします。皆様のお買い物の便宜の図るために、店の営業時間を下記のようにします」とあって、金曜日と土曜日は 20時まで開店、また日曜日も営業することが書いてあります。

右の写真には「Zicherieにようこそ」という横断幕が見えます。11月 9日にベルリンの壁が崩壊し、東西ドイツの壁はそこから数日遅れて崩壊を始め、かつて道路が通じていたところが、少しずつ開通を始めます。このころはまだ、全西独を挙げて東独からの「訪問者」を歓迎していた時期だったのです。


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