- 2020-10-12
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三十年前のドイツ(64):「まだ東独が「DDR」だった頃のあちらこちら -6- Elbfähre」からの続きです。
とうとうこの日がやってきました。ドイツ統一の日です。水曜日ですが祝日となり、ドイツのあちこちでイベントが催されたようです。私が住んでいたリューネブルクでは大きなイベントはなく、静かな休日という印象でした。この日の新聞は買っておかなくては…ガソリンスタンドに行きました。何故か残っているのは Hamburger Abendblattと Bildの号外だけですが、3日のイベントを報じた4日の新聞はいくつか残っています。
三人目の子の予定日が、1990年の10月11日であった。ドイツ統一は10月14日という説もあり、ひょっとしたらドイツ統一の日に生まれるかも知れないという気がした。男の子だったら「統一」と名付けようかと考えた。しかし...どう読ませるか?「とういつ」じゃあんまりだし「とういち」も、語感がしっくりこない。滅多に見ることのない漢和辞典を持ち出して「統」と「一」の読み方のあらゆるヴァリエーションを組み合わせてみたが、なかなかぴったり来るのがなくて、もやもやと悩んでいた。
ドイツの統一の方は、もはや迷いもなく、加速さえついていた。当初もっとゆっくり進むのかと思っていたら、ひとたび統一が公に口に出されるとそのスケジュールはどんどん早まっていった。10月14日というのも早まったスケジュールだったのが、いつの間にか10月3日になっていた。
壁が崩壊した時に、西にどっと移住していった人がいた一方で、大半は「ここに残って国を再建する」と言った。西側もどんどん移住してこられたのでは流石に不都合だから、東の再建を支援して人口の雪崩的流入を防ごうとしていた。が、そのことと、統一とは別であった。人は東独にとどまったものの、統一への欲求は高まる一方だった。どうやって東独を「まともな」東独として再建するかという真剣な議論は、性急な欲求の前に吹き飛ばされた感がある。Wir sind “ein” Volk ! というデモ標語はすごいパワーを秘めていたのだ。あれは西の人間が書いたんだという説もあったけれど...
西独の憲法に相当する「基本法」は将来のドイツ統一を想定しているが故に「憲法」とは呼ばず「基本法」と呼ばれたそうだが、そのなかには統一の際の手続きも規定してあった。こういうことは超法規的に行われるものかと思っていたら、そういうものではないらしい。よく覚えてはいないのだが、正式な方法で統一の運びとなるためにはいろいろと面倒な手続き、ステップを踏む必要があるところを、別の条文に「但し、来るものは拒まず」みたいな文言があって、それを手続き簡略化の抜け道に使ったという記憶がある。
統一した後、西独政府に対して旧東独をどういう風に扱うかという交渉をして国家間契約(条約)を結ぶのが東独政府の最後の仕事となり、クルーゼという目つきの鋭い東独の若手の大臣がその任に当たっていた。東独政府が消滅した後、西独(というか統一後の)政府がそれを履行しなかったら、だれがそれを咎めて、どこに訴えることになっていたんだろう?
10月3日は穏やかな天気であった。リューネブルグのうちの回りではあまりお祭り騒ぎが持ち上がっている様子ではなかった。テレビの式典ではコール首相やヴァイツゼッカー大統領が演説をしていた。ヴァイツゼッカーの “Sich zu vereinen, heißt teilen lernen”(一緒になるということは、分かち合いを学ぶこと)というくだりはその後のニュースでも何度も繰り返された。
一週間後、予定日通り3人めの子が生まれた。こちらの方は特に加速がついたわけではなかった。女の子だった。私の悩みも一区切りついた。