誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(1):★★ ゲルリッツ Görlitz ーその7ー

★ ゲルリッツ Görlitz ーその6ー からの続きです

戦後、ポーランドの「ズゴレジェッツ Zgorzelec」になった町の東半分を歩きます。

団地を出て、コシチュシュキ通り(Kosciuszki)を南に下ります。町並みの雰囲気はドイツのそれとそれほど変わりませんが、やはり土色の漆喰壁が主体です。これは旧東独の町にも多く、旧西独ではあまり見られない色合いです。旧東独ではこういう土色の壁は明るい色に塗り替えられかなり減りましたが、ここではそのままのようです。

ポーランド語の看板をなんとか読み解こうとアタマをフル回転させて推理しますがなかなか手強い(笑)「KOMPUTERY DO FIRMY I DO DOMU」は「COMPUTERS FOR OFFICE AND HOME」だろうとか「SERWIS KOMPUTEROW」は「COMPUTER SERVICE」くらいだろう・・・ですかね、想像がつくのは(笑)まあ、でも「DOが FOR」とか「Iが AND」を意味するんだろうと仮置きして事例を集めることにします。ちょっと数独の解き方に似てるかも(笑)

左手に公園が見えてきます。音楽家で政治家、第一次大戦後、ポーランドの初代大統領となったパデレフスキの名前を冠した細長い公園ですが、なにやら石碑が立っています。

ギリシャ十字の下はギリシャ語、その下はポーランド語なので一番下のドイツ語を読むと、どうやらここには第一次大戦の時期 1916 – 1919年に収容所があり、約 6,500人ものギリシャ人兵士が収容されていたようです。第一次大戦の戦争捕虜収容所は、徳島県の坂東収容所の事例にもあるように比較的ユルかったようです。ここに居たギリシャ兵は、当時のドイツ帝国のウィルヘルムII世の妹のソフィーが、ギリシャの皇帝コンスタンティンに嫁いでいた縁で、捕虜として収容したというより「預かってあげた」的なポジションだったと見えます。この記念碑は 2016年 7月にその百周年を記念して建てられたものです。独語ですがここに経緯があります。

また更に詳しくは、そのギリシャ兵の末裔が「Die Griechen von Görlitz 1916–1919」という本を書いており、更に YouTubeに、その歴史を遡ってゲルリッツに旅をした映像をアップしています。ドイツ語のわかる方には興味深い内容かと思います。

公園を通り過ぎ、引き続きコシチュシュキ通り(Kosciuszki)を南に下ります。このあたりのどっしりした建物群はドイツ帝国時代のもので、ポーランド語をアタマの中で消去すればドイツのどこかの町に来ているような錯覚に陥ります。ただやはりリノベーションにあまりおカネが回ってこないのか、やや煤けていたり傷んだ部分が目立つのが残念ではあります。横断歩道の信号が妙にロボットっぽいのがほほえましくもあります。

★ ゲルリッツ Görlitz ーその8ーに続きます

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