三十年前のドイツ(39):Ist Leipzig noch zu retten? ライプツィヒはまだ救えるか?

三十年前のドイツ(38):1989年11月10日金曜日・12日日曜日 東西ドイツ国境からの続きです。

今回は、壁崩壊後直前の 11月 6日に東独の国営テレビで放送された「Ist Leipzig noch zu retten? ライプツィヒはまだ救えるか?」という伝説的なルポルタージュ番組を取り上げます。ホーネッカー書記長の時代には「バラ色の社会主義」というスタンスを崩していなかったので、政府に批判的な内容や政策の失敗などを取り上げた番組は考えられなかったのですが、クレンツ政権になってからはもうそういうものを力では押さえきれなくなっていました。

国境に近かった私の家では東独の放送が受信できたので、この番組も見たのですが、ライプツィッヒメッセなどで知られていた東側の大都市の惨状を見て衝撃を受けたものです。日本の木造家屋は人が住まなくなると容易に廃墟化しますが、盤石に見える煉瓦造りの建物もメンテナンスをしないと酷いことになるようです。

全部で3本の三部作ですが、これは後に東独のテレビ番組をDVDとして再編集したもののトレイラーです。

まず 11月 6日、壁崩壊直後に放送された第一回です。冒頭に廃墟化しつつある町の一角を背景に一般市民の女性へのインタビューがあり「直ちに、もう明日からでも対策を見つけないと・・・まだ住めるうちに建物の改修をしないと・・・ここに5人の子供たちを預かる保育園があるんだけど、閉鎖になって代わりがないのよ・・・このままでは町全体が壊れてしまうわ」と悲痛な声で状況を訴えています。その後、ライプツィッヒのあちこちでこういう状況になっている様子が報告されます。

ライプツィッヒは、一般市民が政府に改革を求めた「月曜デモ」で有名になっており、その状況は西側のテレビでも見ることが出来ましたが、デモはニコライ教会の夕方の祈りの後に、そこに集まった人達が街頭に出て始まるので、その様子を放映しても建物の様子は暗くて見えませんでした。それが昼間のインタビューで廃墟化しつつある町の様子が生々しく報道されると、その惨状に西側にいた我々も大きな衝撃を受けたものです。

この番組は大きな反響を呼び、その2週間後にフォローアップ番組「Wie ist Leipzig noch zu retten?ライプツィッヒは『いかにして』まだ救えるのか?」と”how?”を様々人達にインタビューで問いかけます。初回の番組は政府を動かし新しい建設大臣が任命されたのですが、最後はその新任建設大臣へのインタビューで締めくくられます。

3回目はそれから2年後、1990年10月にドイツの再統一がなされ、そこから一年後の放送となります。タイトルは「War Leipzig noch zu retten?ライプツィッヒはまだ救えたのか?」と過去形になっています。結論から言えば状況は改善されず失望が広がっているという状況を描き出しています。かつての工場地帯では、工場は倒産し、家屋の廃墟化は進み、人口は減少し、失業者が廃墟の中で暮らしているという状況です。

ドイツ統一がなされ、DM(西独の通貨のドイツマルク)が導入され、企業も国営から民営となり、全てが良くなるだろう・・・という幻想が崩れ失望が広がっています。街頭インタビューでも「ホーネッカーとミールケのいない東独の方がマシだった」とか「1989年にはまだ希望があった」という声が聞かれます。

民主化を求めて市民が街頭に出てデモ行進した「英雄の町ライプツィッヒ」はもう行進しない。かつて市民たちが行進した歩道橋は崩壊し改修されなければならない状況だ。15万戸の家屋を改修するのに150億マルクかかるとされているが、それに責任を持ってすすめてくれるのは誰なのかはっきりしない・・・そういう言葉で締めくくられています。

これを見るといろいろ考えさせられますね。

ライプツィッヒは市民が街頭に出て、政治の改革・透明化を求めてデモ行進を行った「英雄の町:Heldensstadt」と呼ばれていました。この頃の標語で有名なのは「Wir sind das Volk:我々こそが人民だ!」・・・Das Volk・・・これは解説すると、それだけで本が書けそうな言葉なのですが、ここでの使われ方を分かり易く言えば「主権在民」を求めてデモ行進したというイメージです。

この後暫くして、非常に似た標語なのですが「Wir sind ein Volk」というのが登場します。ドイツ語文法の定冠詞 dasと、不定冠詞 einの違いくらいに見えますが、ここでは「ひとつ」という意味・・・すなわち「我々は一つの民族(国民)だ」という意味を提示しています。そう・・・西独と東独は一つの Volk・・・一緒になるべきだ!・・・そんな意味が込められていたのです。この標語はインパクトがあり、その後の東西統一の流れを創り出した重要な標語となります。

これに関しては改めて書きますが「東西ドイツを統一し、歴史に名前を残したいと思ったコール首相が創り出した標語」という都市伝説もあります。東独市民は「裕福な西独の傘下に入って自分たちもその恩恵を享受したい」と思う人と、あくまで SED(社会主義統一党)の独裁体制を排除しつつ真っ当な社会主義を目指したいと思う人と・・・その狭間で皆揺れ動いていたところに「Wir sind ein Volk」で一気に統一に動き出したという感じです。

しかし、壁崩壊の時点では「Wir sind das Volk:我々こそが人民だ!」を求めていた・・・こんな廃墟のような家屋に住みながら、まず求めていたのはより良い生活よりも「政治的な自由・透明な政治」だったのです。

そして、その後「Wir sind ein Volk」によって「西独の傘下に入れば、全てが良くなる」という幻想を抱いて・抱かせられて統一を果たした・・・しかし、実際には期待したようにはいかなかった、統一への熱気は幻滅へと醒めて行った。

この3部作の3番目は、壁崩壊時の陶酔感(オイフォリー)が冷めたあとの1991年の幻滅感を端的に描き出しているのです。

今日、壁の崩壊から30年経った今でも、旧東独市民は「自分たちは二級市民と扱われている: Bürger zweiter Klasse」という意識があるといわれています。その「ボタンの掛け違い」は既にこの頃から始まっていたのです。

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折角いろいろ検索したので、もう少し関連動画をアップしておきます。ライプツィッヒの歴史と、東独末期の惨状に関するものです。

(この項、後日補足・加筆予定です)

三十年前のドイツ(40):Erste Einreise in die DDR 初めての東独への入国 -1-に続きます

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