三十年前のドイツ(33):1989年11月1~8日までの状況

今、改めてこの頃のニュースを見直してみると、ベルリンの壁の崩壊やドイツの再統一はもはや必然の流れだったことを感じます。確かに11月9日に起こったベルリンの壁の崩壊は、予定に無かった原稿をうっかり読んでしまったシャボウスキー報道官のエラーが直接の引き金ではありますが、それがなくても、12月には新たな旅行法(ほぼ不可能だったこれまでよりは大幅に自由に出国できる枠組み)を制定する段取りだったし、そうでなくても、チェコにはもう大きな穴が開いていたのです。今回はそのあたり、壁が崩壊する前の10日足らず、11月に入ってからのニュースを追っていきます。

東独には「Freie Deutsche Gewerkschaftsbund 自由ドイツ労働総同盟」という、政府肝いりの労働組合の上部組織がありましたが、この状況に至るまで労働組合の上部団体は一体何をやっていたんだ!という批判に晒され、遂にそのトップの Harry Tischは辞任に追い込まれます。Tischは Politbüro(政治局)のメンバーであっただけにインパクトは大きかったと思われます。

旅行自由化・SED党幹部の刷新・自由選挙などを求めるデモは各地で続き、その規模は益々大きくなる一方です。また各地で中央政府や地方政府・SEDと市民との対話が行われますが、もはや公然と政府の無策を批判し、幹部の刷新を求めるようになります。つい3週間ほど前のホーネッカー時代には考えられなかったことです。クレンツはパンドラの箱を開けてしまったのかも知れません。

結局、こういう東独市民からの圧力を受けて、シュトフ(Willy Stoph)首相の内閣は総辞職し、その後任に SEDのドレスデンの地方トップで改革派のハンス・モドロウ(Hans Modrow)が推挙されます。彼は同じくドレスデン市長で改革派のベルクホーファー(Berghofer)と共に民主化のデモにも参加した人物です。

しかし、実権を握っているのは内閣ではなく、SEDの中央委員会政治局であることは誰の目にも明らかで、この政治局員も総入れ替えが行われます。これまでの旧勢力 Stoph, Mielke, Tisch, Hager, Sendermannらは退陣することになります。シャボウスキー報道官は記者会見で、新たな自由選挙法の検討についても言及しています。

もう一つ重要なことは、ここで東独政権は真面目に「出国・旅行に関する規則の枠組み」の検討を始め、12月頃には法制化して運用するとアナウンスし、その骨格も公表したことです。それには「年間30日間を限度に外国に出国してもいい」という文言などが含まれ、これまで実質的には西側への出国は禁止状態だったことからは大幅緩和に思われましたが、何故30日に限定するんだ?という批判に晒されます。また、西側に出国する際に必要な外貨をどう調達するのか?(東独マルクなどは西側では紙屑同然だった)そのあたりはまだまだ議論の余地があったので、12月までという検討期間が必要だったのです。

しかし、一方で東独政府は一旦は封鎖したチェコスロバキアとの国境を、再びパスポートではなく、身分証だけで通過できるように開放していました。また、西独政府もわざわざプラハの西独大使館まで来なくても、チェコと西独の国境で入国手続きが出来るように簡素化しました。その結果、もう毎日、万人という規模の東独市民がチェコスロバキア経由で西独に出国する事態となり、この流れは益々大きくなって行きます。ベルリンの壁が存在していても、鉄のカーテンにはもはや塞ぎようのない大きな穴が開いていたのです。

一旦は出国した東独市民が、国境で西独政府から支給される支援金の100マルクだけではやっていけないことに気づき、「東独に戻っても罰せられることはない」という政府の発表に基づいて、チェコ経由ではなく東西ドイツの検問所からダイレクトに帰国する事例も出てきます。そう・・・実質的に、もはや東西国境の壁にも穴が開いていたのです。

西独政府サイドでは既にこの先に顕在化するであろう課題に気が付いていたと思われます。既に累計で数十万人にものぼる東独市民を受け容れ、その住宅問題だけでも大きな課題になっていました。もちろん表面上は「窮地にあるドイツ人同胞に手を差し伸べる」という立場は崩していませんが、旅行の自由を得たとしても、西側で通用する通貨を持っていない東独市民は、旅行ではなく移住を選択する流れになるだろうことは誰の目にも明らかです(・・・今にして思えば)。この頃から、西独の与党も野党も、東独市民や政権幹部に対し「出国よりも、そこに留まって改革を!」「市民が国を棄てて出国を考えることの無いように、政権内部での改革を!」と呼びかけるようになります。

そして、フランスのミッテラン大統領とコール首相の会談が持たれ、独仏関係がメインテーマではあったにも関わらず、多くの時間が東西ドイツ関係の議論に割かれます。そして共同記者会見でミッテランは「東西ドイツが再統一することを恐れてはいない」と発言したのです。コール首相は「(東独市民が)自分たちで決めることだ」と応じますが、もはや既に東西ドイツが再統一する流れは(ソ連のゴルバチョフ書記長の意向も含めて)出来ていたのではないかと思われます。

まあでも、明日11月9日にベルリンの壁が崩壊するとまでは考えてもいなかったというのは、コール首相が戦後の和解のために、この日ポーランドに出かけたことからも明らかです。そして明日・・・事件が起こります。

(この項、後日補足・加筆予定です)

【1989.11.1 水曜日】

1. Pressekonferenz in Moskau (モスクワでの記者会見)
2. Diskussion über Wirtschaftspolitik (経済政策に関する議論)
3. Rolle der DDR-Gewerkschaften (東独の労働組合の役割)
4. Wieder mehr Ausreisen (再び多数の出国者)

【1989.11.2 木曜日】

1. Wechsel an FDGB-Spitze (自由ドイツ労働組合同盟(東独の労働組合の上部団体)のトップ交代)
2. Rücktritt bestätigt (退任が確認された)
3. Rücktritte
4. SED-Bezirkschefs abgelost (SEDの地域トップが解任される)
5. 1300 DDR-Burger in Botschaft (1300人の東独市民がチェコの西独大使館に)

【1989.11.3 金曜日】

1. Neuer Anstrum (新たな(プラハの西独大使館への)流入)
2. Gespräche über Massenausreise (大量出国に関する対話)
3. Entführungsbericht bedauert (誘拐との報告に関する後悔)
4. Sitsuation im Gesundheitswesen (衛生状態)
5. Weitere Rücktritte (更なる退陣)
6. Deutsche-französische Konsultationen

【1989.11.4 土曜日】

1. Massensemonstration (大規模デモ)
2. Ausreise von DDR-Büergern (東独市民の出国)
3. Demonstration (デモ)


1. Ausreiseregelung angekündigt (出国規則が発表される)
2. Ausreise von DDR-Büergern (東独市民の出国)
3. Entwicklung in der DDR (東独の状況変化)

【1989.11.5 日曜日】

1. Massenausreise (大量出国)
2. DDR-Reisegesetz (東独の旅行法)
3. Ansturm bei “Sonntagsgesprächen” (「日曜対話」に突撃)
4. SED-Bezirkschef zurückgetreten (SEDの地域トップの退陣)
5. Synode zur Massenausreise (教会会議が大量出国に関して発言)
6. Appell an Ausreisewillige (出国希望者への呼びかけ)
7. Appell an DDR-Führung (東独政権トップへの呼びかけ)

【1989.11.6 月曜日】

1. Entwurf für Reisegesetz (旅行法の草案)
2. Reaktionen auf neues Reisegesetz (新旅行法に対する反応)
3. Forderungen der Kommunen (地域からの要求)
4. Demonstrationen (デモ)
5. Reform-Vorhaben (改革の計画)

【1989.11.7 火曜日】

1. Regierung zurückgetreten (内閣の退陣)
2. Massenausreise (大量出国)
3. Forderung nach SED-Sonderparteitag (SEDの臨時党大会を要求)
4. Kritik an neuem Reisegesetz (新しい出国法への批判)
5. Massenausreise (大量出国)

【1989.11.8 水曜日】

1. Neues Politbüro (新しい政治局)
2. Als Regierungschef vorgaschlagen ((Hans Modrowが)行政府トップに推薦される)
3. Rede vor ZK (中央委員会前での演説)
4. Reformdiskussion (改革の議論)
5. Massenausreise (大量出国)
6. Reformdiskussion (改革の議論)
7. Lage der Nation (国の状況)

三十年前のドイツ(33):1989年11月9日木曜日 ベルリンの壁崩壊(1)に続きます。

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