バールレ=ナッサウ(Baarle=Nassau):世にも不思議な飛び地

オランダの南部、ベルギーとの国境近くの「バールレ=ナッサウ(Baarle=Nassau)という町があります。いかにもオランダの田舎という風情の平坦な土地にある、ありふれた小さな町に見えますが、地図をよく見るとベルギーとの飛び地や国境のあり様が世にも不思議な構造をしているのが分かります。

オランダの中にベルギーの飛び地が点在しているだけならともかく、そのベルギーの飛び地の中に、更にオランダの飛び地が入れ子になっているところまであるのです。なんじゃ、こりゃ?(笑)

薄い黄色がオランダで、散らばってい存在している濃い黄色がベルギーですが、その濃い黄色の中に再び薄い黄色のオランダがいくつも存在しているのが確認できます。

オランダ視点(左)では、北ブラバント州の最南端でベルギーと国境を接する緑の部分がバールレ=ナッサウです。一方ベルギー視点(右)ではアントワープ州の最北端で「バールレ=ヘルトフ(Baalre=Hortog)」と呼ばれ、離れ小島のような赤い部分がオランダバールレ=ナッサウの緑の中に飛び地として存在しているという構造になります。そして更に、その赤の中に細かい緑が入れ子になっているという訳です。

町を歩くと。あちこちにこういう国境線が引かれているのが目につきます。NLは Netherlandsdでオランダのこと、Bはもちろん Belgiumでベルギーです。下のフォトギャラリーから他の事例もご覧ください。

例によって Wikipediaからの引用ですが「バールレ=ナッサウ(Baarle-Nassau)は、オランダの北ブラバント州の町。ベルギーとの国境より5キロメートル程度オランダ側にある。バーレ=ナッサウと表記する場合もある。21箇所ものベルギーの飛び地が町の中に点在しており、さらに、場所によってはベルギーの飛び地の中にオランダの飛び地がある「国境線だらけの町」である。ベルギーの飛び地はバールレ=ヘルトフ(Baarle-Hertog)という町である。

バールレ=ナッサウ(オランダ側)の人口は約6,000人、バールレ=ヘルトフ(ベルギー側)の人口は約2,000人である。なお、家の中を国境線が通っている場合は、その家の住民全員が正面玄関がある方の国民ということになっている。」とあります。

更に「ローマ帝国の植民都市として、紀元前1世紀頃に築かれたといわれている。歴史書にその名前が記されたのは992年である。

12世紀末に起こった係争の結果、現在のオランダ領であるブレダ南部の広大な領地を、ブラバント公爵がブレダ領主に対して封建領地として与えたといわれている。その当時はまだ、人が住んでいない林と平原の土地だったという。しかし、ブラバント公爵は自らが所有する土地として現在のバールレ=ヘルトフ(ベルギー領の地区)を手元に残していた。ナッサウはブレダを領したナッサウ家(オラニエ=ナッサウ家)、ヘルトフ(オランダ語で公爵の意味)はブラバント公爵領であったことを意味する。

1648年のヴェストファーレン条約によりブレダ領はオランダ共和国領となり、ブラバント公爵領が取り残される(スペイン領ネーデルラントに属する)形となった。

1810年以降にネーデルラント全土がフランス帝国の直接支配を受け、また1815年に大オランダ王国が成立して両者が一旦は同じ中央政府の下に置かれたにもかかわらず、1843年にベルギーが独立した際に両国政府および住民の間で調整がつかず、再び国境線が復活した。

1991年にシェンゲン協定によってオランダとベルギー間の移動はほぼ完全に自由になったものの、飛び地が点在している状況では様々な問題が起きるため、オランダとベルギーの間で何度か飛び地解消に向けた交渉を行った。しかし、この状況を利用する住民の反対などもあり、解消されないまま今日に至っている。」という記述があります。

この状況を利用する住民とは、例えば「バーの深夜営業時間が、オランダでは午前2時まで、ベルギーでは午前4時まで」と定められると、「『家の中を国境線が通っている場合は、その家の住民全員が正面玄関がある方の国民となる』という規則を利用して、正面入り口をベルギー側に付け替えて営業可能時間を長くする」みたいなことで、実際こういう事例がまま起こるようです。

これは私が泊まったホテルですが、建物の中を国境が通っており「ベッドの左半分はオランダ、右半分はベルギー」と示されている部屋です。まあ「正面玄関はオランダ側なので、実際にはオランダなんですが(笑)

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