- 2024-11-26
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★★ グライフスヴァルト Greifswald -6- からの続きです
さて、そろそろ引き返して駅に向かいます。泊まっている Neubrandenburgまで2時間弱かかりますからね。まあ、そっちをキープしておいて追加でこのあたりに宿をとって、六角精児の呑み鉄旅のように「独り酒場放浪記」をやる手もあるんですが(笑)・・・今日のところは帰ろう。
もし泊まるとしたらここから 20分くらいのシュトラールズンドか、あるいはヴォルガストにあたりにして翌日はペーネミュンデ(ナチスの V2ロケットの実験場)あたりをカバーするとか?でもそこまで行くとポーランド国境まで行きたくなるだろうし、そうするともう一泊コースだしなあ(笑)
やはり帰ろう!明日は明日で、是非行きたいところが少なくとも2か所はあるんです!
2023年の夏、ドイツで流行っていた「Bubble Tea」・・・試さなかったけど何だったんでしょうね?絵柄からはフルーツジュースとか野菜ジュースのように見えるけど・・・それに炭酸でも入っているのかな?でも「Tea」だからなあ・・・
Lange Strasseを中心に旧市街のレストラン・バーや店舗の案内です。300もあるんですか!かなりなもんですね
Weinhausか!ええですね~!でも、ワインは買っちゃったからなあ・・・ということでちょいとビールにします。夕方 17:00時ですがまだまだ日は落ちません。明るいうちから呑むのって、駐在時代はなんだか罪悪感がありましたが、今はもうマイブームです(笑)
このあたりで町の歴史につき独語 Wikipediaを DeepL翻訳させて送ます。
名称の変遷
中低ドイツ語のグリップは、グリフィンを意味し、おそらくは後にグリフィンとも呼ばれるようになったポメラニア公家の紋章の動物を指している。ヴォルト/ヴォルドは「森」を意味する。グリフィンと森は、グライフスヴァルトの紋章にも見られる。グライフスヴァルトのラテン語名は Gryphisvaldiaである。1990年以降、この都市は再び名称に接尾語「ハンザ同盟都市」を冠しており、現在は「大学都市・ハンザ同盟都市」と称している(Universitäts- und Hansestadt)
中世
ポメラニアにおけるグライフスヴァルトの創設は、エルデナ修道院にまで遡り、その領地に当初は属していた。1241年、リューゲン公ヴィズラフ 1世とポメラニア公ヴァルティスラフ 3世の両者から、2つの古い交易路が交差するこの地に市場の権利が修道院に与えられた。1249年 6月には、ヴァルトスラフ3世は修道院を説得して、市場都市グライフスヴァルトを封土として与えることに成功した。そして1250年 5月14日には、リューベックの自治法を認めた。その結果、グライフスヴァルトはポメラニア公からより独立した都市となった。この都市は有力な「Wendischer Städtebund」に属していた。しかし、シュトラールズント、ヴィスマール、ロストックの港とは異なり、グライフスヴァルトの港は堆積により、14世紀から15世紀にかけての船舶の需要に応えることができなくなった。その結果、グライフスワルトは他のハンザ同盟都市に遅れをとることになった。
1456年、ヴァルトスラフ 9世公は市長ハインリヒ・ルーベノーの提言に従い、ポメラニア州立大学として大学を創設した。小さな町に大学が創設されたことは、今日まで続く形成的な影響を与えた。
1990年以降
都市開発の一環として1991年から行われている歴史的な市街地の改修により、旧市街の残りの部分も再び見応えのあるものとなった。特に、独立した市庁舎のあるマルクト広場は、北ドイツで最も美しい広場のひとつとされている。
1993年以降、まず最初にプレハブ住宅地の再設計と改良(都市再開発)が行われ、2000年からは取り壊しと再建築が行われた。
2011年のメクレンブルク=フォアポンメルン州の地域改革により、2011年 9月4日、グライフスヴァルトは地区としての独立性を失い、新たに形成されたフォアポンメルン=グライフスヴァルト郡の一部となった。
★★ グライフスヴァルト Greifswald -8- に続きます