誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(77)★★★ オスターブルク Osterburg -5-

★★★ オスターブルク Osterburg -4- からの続きです

50分で小さな町を一周した訳ですが、何故か残る違和感・・・というか忘れ物をした感じ!そういえばマルクト広場って行ったっけね?

自分としては「ある町に行った」ということを標榜するには「ラートハウス」「マルクト」に行った・見たということを一応の基準にしているんです。前章でみた鉄筋コンクリートの Stadt Verwaltingって市庁舎の機能をするものなので、あれかな?と思ってはいたんですが・・・この町には爆撃された形跡がない、なら歴史的な市庁舎は他にあるハズ・・・はて?

お祭りのゴーカート場の向こうにニコライ教会が見えています。私はそこを真直ぐに、向こうの Breite Strasseに突き当たるまで歩いたのですが、教会の手前を右に折れて Wasser Strasseを進むと、そこに赤丸で囲った Grosser Marktが有ったんですね!しまった(笑)もう少し正確に言えば Wasser Strasseの突き当りにラートハウスがあり、右斜め前に Grosser Marktが広がっており、左には Kleiner Marktという名前の道がある・・・そんな感じです。

これは Kleiner Marktがわから見た Rathaus

もう少し傍によると、右斜め前にはファッハヴェルクの Ratskellerが見えます

Neptunbrunnen

そうか~、こんな感じだったのかあ~!残念(笑)最後のはお祭りの時のマルクト広場と思いますが、やはり晴れていると雰囲気が違いますね!

オスターブルクの歴史を Wikipediaから訳しておきます。

三十年戦争では壊滅的な打撃を受け、その後復興したものの 1761年の大火で再び町の 2/3が焼失します。今日残っている建物は殆どが 1761年以降に建てられた建物のようです。右の写真(手前のマンサード屋根の家)は数少ない 1761年以前に建てられたものです。外観からはもう分かりませんが・・・

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オスターブルクは12世紀に現在のブライテ通り(Breite Straße)の場所に集落として誕生した。オスターブルク城がビーズ川沿いに初めて文書に登場するのは1157年で、この時はアルブレヒト・デア・ベア(Albert der Bear)が所有していた。同年10月3日、アルブレヒトがエルベ川沿いのヴェルベンで発布した文書では、ブランデンブルクの辺境伯として初めて自身を称しており、証人の一人としてオスターブルクのヴェルナー伯の名が挙げられている。アルブレヒトの姉アデライドは、ヴェルナーと結婚していた。ヴェルナーは 最初の夫であるシュターデ伯でノルトマルク辺境伯のハインリッヒ(1128年没)の死後、アルブレヒトの姉アデライドはシュヴァーベン家のヴェルテルハイム伯のヴェルナーと再婚した。1170年、オスターブルク伯アルブレヒトはクレーヴェゼベネディクト会修道院を創設した。1188年には、オスターブルクの聖ニコラス教会が献堂された。1208年には、オスターブルクは正式に「オッピドゥム(都市)」と名付けられ、都市特権が与えられた。ヴェルテライン家のオスターブルク伯の最後の人物は、1238年頃に死去したジークフリート・フォン・オスターブルクである。13世紀には、この都市はブランデンブルク辺境伯の所有となった。1436年から1488年にかけて、オスターブルクはハンザ同盟に属し、中世後期には人口は約1,500人に達した。1580年頃には、オスターブルクの人口は 300軒の家屋があった。19世紀初頭に取り壊された中世の市壁と城壁の跡は、現在でもベルクシュトラーセ、ヴェルベナー・シュトラーセ、ブルーメンシュトラーセ、プロムナードのコースで確認できる。オスターブルクには3つの門があった。すなわち、ブライテ通り(Breite Straße)の北端にあるゼーホイザー門(Seehäuser Tor)、南端にあるシュテンダラー門(Stendaler Tor)、ヴェルベナー通り(Werbener Straße)の終点にあるアルテ・シュタット門(Alte-Stadt-Tor)である。

三十年戦争中、この都市は何度も略奪され、1626年から1628年にかけてペストが流行し624人が死亡、1631年には火災により222軒の家屋と市庁舎が焼失し、1644年には壊滅的な被害を受けた。1648年には、わずか44世帯が残るのみとなった。市庁舎は1681年まで再建されなかった。1761年には市の3分の2が焼失し、ニコライ教会内でも火災が発生した。

オスターブルクは1816年にオスターブルク郡の郡庁所在地となった。1820年には256棟の建物に1,620人の住民がおり、1840年には287棟の建物に2,238人の住民がいた。1849年には、マクデブルクハンブルクを結ぶ鉄道がこの町まで開通し、ほぼ同時期にオスターブルクはシュテンダールヴィッテンベルゲビスマルク(アルトマルク)と道路で結ばれた。1860年頃から、オスターブルクは南に向かって計画的に直線状の道路で拡張されていった。新興地区には、ネオゴシック様式のさまざまな代表的な建物が建てられた。例えば、1861年に聖ゲオルク病院、1868年に男子中等学校、1871年に女子中等学校、1889年に郵便局、1895年にバーンホフシュトラーセ(Bahnhofstrasse)に代表的なホテルが建てられました。ヴィルヘルムスハイデ公園は早くも1875年から1876年にかけて整備された。現在の駅舎は1901年から1902年にかけて建設された。シラー広場は駅と旧市街の中間地点に整備され、1908年にはフリードリヒ・シラーの記念碑が建てられた。オスターブルクは1994年まで地区の中心都市であった。1952年から1990年まではDDRのオスターブルク地区の地区都市であり、1994年までは新しく設立されたザクセン=アンハルト州のオスターブルク農村地区の地区都市であった。1994年、ザクセン=アンハルト州の郡再編が導入された際、オスターブルク地区はシュテンダール農村地区(一部はザルツヴェーデルのアルトマルク地区)に編入され、オスターブルクは地区都市としての地位を失った。

この町ではアルトマルク農業の生産品を加工する産業が発展した。しかし、ブリキ製品も生産されていた。1929年、アウグスト・フーヘルがドイツアスパラガス育種協会を設立したことにより、オスターブルクはアスパラガスの町として知られるようになりました。ドイツ民主共和国時代には、ブルクラーテナウ光学工場の支社とローター・シュテルン靴工場が置かれ、数百人の女性に雇用を提供していた。これらの企業の運命は、ドイツ民主共和国の崩壊とともに決定的となった。

2007年6月1日から3日にかけて、オスターブルク市は850周年を祝うとともに、第11回ザクセン=アンハルトの日を開催した。2008年6月1日より、この町はハンザ同盟都市オスターブルク(アルトマルク)として知られるようになった。

★★★ オスターブルク Osterburg の章を終ります

シリーズ:誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte に戻ります。

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