誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(72)★★★ ゼーハウゼン Seehausen -1-

ザクセン=アンハルト州のゼーハウゼン Seehausenをご紹介します。

出ました。正真正銘の「非知名度★★★」の町です(笑)

しかし・・・そもそも何故 Seehausenなのか?人口たかだか 5,000人足らずの町になんの思い入れがあるのか?歴史的なオタカラでもあるのか?

いや、そういう話でもないのです。

右の地図はクリックすると拡大します。1990年4月・・・東西のドイツがまだ存在していた統合前、我々日本人のような外国人が国境でビザを発給してもらい東ドイツに入国できるようになるには、ベルリンの壁が崩壊してからまだ半年の時間が必要でした。

4月になると、私は毎週末に東ドイツにドライブに行きます。西ドイツの援助による復興はまだ始まっておらず、経済的に疲弊した東ドイツのどん底の状態だった時期です。今のうちにこれを目に焼き付けておかなくては!

東ドイツに入るにはまず、西側のユルツェン Uelzenに行き、そこから東に向かって 30km程走ると国境検問所があります。そこを通過すると、最初に現れるそこそこの町というとザルツヴェーデル Salzwedelです。

当時の国境検問所。国境標識柱が見えます。

ザルツヴェーデルを訪問した後、次にどこかに行くかということで、取り敢えず車で町をでると分岐点があり、そこの標識に「←Seehauzen:Stendal→」と出てきます。どちらの町が大きそうかというと当然 Stendalなので、そちらを選択して南下します。Stendalのあと、次にどこ?というと・・・Magdeburgでしょう、やっぱり・・・。その後、何度かこのルートを通ることになりますが、いつも「←Seehausen」というのを見ながら結局は行くことはないままに、どこかずっと気になっていたんです。

今回、町探訪の拠点として Strndalを選び、地図を眺め DBの時刻表を調べていたらなんと電車で 30分のところにあの Seehausenがあるではありませんか!こりゃ行かなければ(笑)そうなんです。結局私の放浪・町探訪は名所旧跡や歴史的に重要なものを追い求めるのもあるのですが、それと同じくらい「ずっと気になっていた忘れ物を取りに行く」「伏線を回収に行く」という側面が強いんです。そんなわけで Seehausen !

Wappen Lage Data

独語 Wikipedia
自治体の公式サイト
Altmarkの観光案内サイト

歴史(独語 Wikipediaより)

ゼーハウゼン周辺は、新石器時代から人が住んでいたことが考古学的発見から示唆されている。1151年、アルブレヒト熊公時代に町として宣言され、オランダ人入植者を既存のスラブ系住民と一緒に定住させ、この地域をさらに埋め尽くした。町の名前は、町の近くにある湖に由来するものではない。むしろ、この地が領地として与えられたシダグ伯爵に由来する可能性が高い。1009年、ウィグベルト司教は、現在のゼーハウゼンの場所にシダゲスフーゼンという集落があったことに言及している。ゼーハウゼンは 1358年から 1488年までハンザ同盟に加盟していた。

中世の町として、ゼーハウゼンには町の要塞があった。町の城壁と 5つの城門のひとつであるボイスター門の遺構が現在も保存されている。また、町域にはいくつかの教会があり、そのうちのいくつかは病院のものであった。三十年戦争の間、アルトマルク、ひいてはゼーハウゼンも紛争の影響を受けた。ヴェルベン近郊にスウェーデンの堡塁を建設するために建築資材が徴発され、そのために郊外が取り壊された。1569年から1721年まで、この町は魔女狩りの影響を受けた。25の魔女裁判で14人が処刑され、1人の女性が拷問の結果死亡し、1人の女性が獄中で自殺した。

アルトマルク最大のユダヤ人コミュニティは 1840年代にゼーハウゼンで形成された。1860年にシナゴーグが設立されたが、1900年に再び放棄された。1938年11月のポグロムに関連して、1828年に設立された近くのユダヤ人墓地 アム・シラーハインは 国家社会主義者によって破壊された。ゼーハウゼンは 1849年にマグデブルク・ヴィッテンベルク鉄道網に接続され、当時はまだ町の郊外にあった独自の鉄道駅(現在は停車駅)も与えられた。1865年には新しく建てられた文法学校が開校した。

ゼーハウゼンは、かつてエルベ川の氾濫地帯であったヴィッシェの西端に位置する。1909年にカンネンベルクの 堤防が決壊したのをはじめ、町の歴史上、何度か堤防の決壊や洪水の被害を受けている。

ゼーハウゼンは1945年4月12日からアメリカの占領下に、1945年6月1日から30日までイギリスの占領下に、1945年7月1日からソ連の占領下に置かれた。
ゼーハウゼンは1952年までオスターブルク郡に属していたが、ドイツ民主共和国の行政改革の一環として新たに創設されたマグデブルク郡の郡庁所在地となった。ゼーハウゼン郡は1965年に解散し、オスターブルク郡に編入された。

あまりドラマチックな歴史もない代わりに、第二次大戦の激戦区で壊滅的に破壊されたということもない・・・まあ、人口 5,000人前後の自治体で、さしたる軍事施設も無く、最初は西から来た米軍によって占領されたのでソ連赤軍とは違い「リベンジ破壊」みたいなことも行われなかった・・・幸運と言えるでしょう。まあ、その後、このあたりはソ連赤軍に引き渡され東独となってしまったのが不幸と言えば不幸と言えますが・・・

★★★ ゼーハウゼン Seehausen -1- に続きます

関連記事

ページ上部へ戻る