誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(71)★★★ ガルデレーゲン Gardelegen -6-

★★★ ガルデレーゲン Gardelegen -5- からの続きです

さて周縁部を攻めた後は市内の中心部に戻って来て、まだ歩いていなかったあたりを出来るだけカバーしていきます。

この金色のライオンをシンボルとするアポテケ(薬局)は、黒い鷲をシンボルとするものと双璧で、ドイツには至る所にありますね。

Rathaus:1241年、現在の市庁舎の場所にあった商人兼見世物小屋が初めて文献に記載された 。1999年、西側正面で14世紀前半に建てられた前の建物の樽貯蔵室が6室発掘された。それ以外の以前の建物の遺構はほとんど残っていないが、1526年の町の火災で以前の建物が焼失した後、1526年から1552年にかけて新しい建物が建設された。1914年から1917年にかけて、オットー・スティーエルによる計画に従って、東西の破風の追加やアーケードの開口部を含む改修が行われた。 現在に至る最後の全面的な改修は1998年から1999年にかけて行われた。2002年には、1727年以来失われていたローランドの代わりにローランドが建てられ、その図面が残っている(ローランド・フォン・ガルデレーゲンも参照)。 現在、市役所のほとんどは隣接するルドルフ・ブライトシャイト通りの建物にある。

聖マリエン教会:1200年頃、現在のマリエン教会の敷地にロマネスク様式の小さな教会が建てられ、13世紀にかけて何段階かに分けて拡張され、正方形の西塔を持つ5階建ての ホール教会になったロマネスク様式の聖堂からは、南壁に2つ、北東壁に1つ、異常に太い丸棒を持つ3つの丸アーチ窓と、祭壇に向かう丸い凱旋門が保存されている。トラスプトの建設は取り壊された。おそらく1306年の町の火災の後、3ベイの 長い祭壇が 5ベイの端に建てられた。15世紀末、身廊は高くなり、丸天井になった聖具室は聖歌隊の南側に建てられた。後に増築されたにもかかわらず、ゴシック様式の階段状の破風が残っている。

マルティン・ルターの弟子であるバルトロマイウス・リーゼベルクは、1539年からこの教会で働き、アルトマルク地方に宗教改革をもたらした。聖マリア教会は町の主要な教会となった。1558年に北側に2階建ての増築が行われた。1階には4つのベイを持つ精巧な星型アーチがある。上階にある守護聖人の宿舎は、セント・メアリー・ホールとして知られている。増築部分の窓と壮麗な花嫁門はまだゴシック様式だが、破風はすでにルネサンス様式である。階段塔の窓は、北側の聖堂の窓のロマネスク様式を引用している。

1658年の昇天祭の日、教会の礼拝中に塔の大部分が崩壊し、屋根と教会内部が損壊した。その後、身廊の柱と丸天井を取り替える必要があり、1691年までに塔が再建され、二重のランタンを持つバロック様式のドームが増築された

1945年には、戦争で破壊されたガルデレーゲンの聖ニコライ教会から多くの調度品を譲り受けた。1973年には、南後陣に様々なパーツを組み合わせて作られたヴェスパー祭壇が設置された。教会内部は1983年に改修され、1991年からは屋根と石組みが改修され、鐘も新しくなった。身廊の天井と台座部分の改修、再塗装、電気設備などが含まれる。

躓きの石 Stolperstein : かつてここに住んでいたユダヤ人家族の運命を記すもので、アウシヴィッツやテレジエンシュタットの収容所に送られそこで殺害された、移送中に逃亡し死亡した、ベルギーに逃げ生き延びた・・・などとあります。

周縁部は廃業した店舗も目立ちちょっと枯れた印象です。独立した小売店の時代は終わったのでしょうか・・・どうすれば再生できるんだろう?

かつては何世紀にもわたって要塞の壁の礎石だった、
暗い鉱山から私たちは光の中に引き上げられた。
私たちはまた、勤勉に積み上げられ 堅固な建物へと
そして私たちは 愛情をこめて花のような緑をまとった。
それが将来も私たちに与えられますように、 何世紀にもわたって
私たちがかつて鎧をまとって守ったこの町を

★★★ ガルデレーゲン Gardelegen -7- に続きます

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