- 2023-1-21
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★★ツェアプスト Zerbst / Anhalt -9- からの続きです
ではここで、この町に壊滅的打撃を与えた連合軍の攻撃についての記事を Wikipediaなどから拾っておきます。原文はこちら(Luftangriffe auf Zerbst)です。
ツェルプスト/アンハルトの町は、1945年 4月 16日に戦術的第 9空軍によって 116トンの炸薬爆弾と 90トンの焼夷弾で攻撃された。その後、低空飛行の飛行機や大砲による砲撃が何日も続いた。文化的建造物だけでなく、かつての小さな住宅街は、その 3分の 2が失われた。ツェルプストは 80%、市街地はほぼ完全に破壊された。574人以上(〜600人)が死亡した。それは、ッェルブストが千年の歴史の中で経験した最大の大惨事であった。
攻撃する爆撃機乗組員へのミッション・オーダーは、「目標は計画 D-988830のツェルブストの町。 この町は防衛的な輸送拠点で、戦術偵察報告によれば、施設、物資、人員の面で非常に強力である…」であった。1945年4月16日、「コミュニケーションセンター」としてのツェルブストへの攻撃は、コードネーム「ヤングガール」で、ベルギーに拠点を置く戦術的第9空軍が第9爆撃機師団(第99爆撃機隊)の双発爆撃機/戦闘機を5波で実施した。30~40機の爆撃機で構成される各波(爆撃隊)の攻撃は、必ずパスファインダーとして配備された2機が目標マーカー(クリスマスツリー)を設定し、その直後に最初の8発の爆弾を投下することで開始された。
参加したマーチンB-26「Marauder」(「Plünderer:略奪者」写真左)とダグラスA-26「Invader」(「Eindringling:侵略者」写真中)計178機のうち、154機が午前10時2分から40分以内に5回の攻撃波で以下の爆弾を投下した(最初は晴天で視界が非常に良かった)(順序:高炸薬爆弾、次に高炸薬爆弾+焼夷弾)。116トンに相当する309個の高爆発弾(58×906kg、32×453kg、215×226.5kg、4×118kg)と、90トンに相当する各226.5kgの焼夷弾396個である。爆撃機の接近と攻撃の高度は約4,000メートルだった。エルベ川に到着する少し前から、第29戦術航空軍のP-51マスタング戦闘機(写真右)が大量に護衛として爆撃機隊に加わった。
使用された爆弾は「汎用爆弾」と「フラグメンテーション爆弾」。焼夷弾はM-17型で、1発226.5キログラム。「この悪魔のようなものは、特殊なヒューズの設定をしていた。高度1,500メートルでコンテナが開き、焼夷弾と燐片を広範囲にばら撒いた」焼夷弾は第4波と第5波が、第1~3波の先行破壊弾で破れた建物へ投下した。中には、投下装置の機械的な問題で、「緊急投下」したり、焼夷弾の場合は運用する空港に持ち帰ったりしなければならなかった機体もあった。(以下抄訳)
さらに10日間、低空飛行の航空機と砲撃が続いた・・・4月27日、アメリカは降伏を要求し、大砲と戦闘機で街を破壊すると脅した。ドイツ国防軍の残党は、夜のうちに東へ退却した。
4月28日の午後遅く、アメリカ軍の戦車と「バックショット」連隊の歩兵が続いて、戦わずに町に入った。その後、残りの7,000人の住民が初めて砲撃の心配のない夜を過ごし、4月29日の間に約5,000人が合流した。軍の病院には、まだ1,100人以上の負傷者がいた。5月6日、赤軍はアメリカの占領を解き、ツェルプストはソビエト占領区の一部となった。占領軍は、破壊されていない兵舎だけでは足りず、残っていた居住用の建物も徴発し、長い間苦しんでいた住民から奪ったのである。「ツェルプストはドイツ民主共和国の取るに足らない地方都市になる運命にあった」が、1945年4月の破壊がそれに大きく貢献したことは確かである。
3,485戸のうち1,433戸が倒壊し、7つの学校、4つの教会、アンハルト州立博物館があるツェルブスト城も破壊された。Zerbstの7,110戸の住居のうち、3,684戸が全壊、309戸が重度、147戸が中度、407戸が軽度の被害を受けた。町の中心部はほぼ完全に破壊された。126ヘクタールの破壊された土地には、372,000立方メートルの瓦礫があった。
下の動画は「Im Wndel der Zeit…(時の流れの中で…)」というタイトルで、ツェルプストの市当局と alt-zerbst.deが制作したもので。戦前の美しい街並み、爆撃、廃墟となった町、その後の復興を 7:30のスライドショーに纏めたものです。ほぼ完全に破壊し尽くされた美しく歴史ある町を偲ぶ無念さが伝わってくるようです。是非ご覧ください。もうあの町は無いのです・・・
★★ツェアプスト Zerbst / Anhalt – 11 – に続きます