- 2022-8-10
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テューリンゲン州南部の町、ルードルシュタット(Rudolstadt)をご紹介します。1918年までシュヴァルツブルク・ルードルシュタット(Schwarzburg-Rudolstadt)侯国の首都で、「776年、カール大帝がヘルスフェルト修道院に寄贈したものとして、ルドルフェスタット(ルドルフの集落)として文書で初めて言及された。」という歴史ある町ですが、シュヴァルツブルク・ルードルシュタット(Schwarzburg-Rudolstadt)侯国の存在も含めて「非知名度」は★★★としておきます。
Wappen | Lage | Data |
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前の章で「ゾンダースハウゼン」をご紹介しましたが、この二つの町はシュヴァルツベルク(Schwarzberg)家の二つの分家がそれぞれ拠点とした町で、ドイツ帝国成立時にはそれぞれ Fürstentums Schwarzberg-Sonderashausenと Fürstentums Schwarzberg-Rudolstadtという二つの侯国の首都だったのです。少し長くなりますが、おさらいの意味でゾンダースハウゼンの第一回目を再掲しておきます。
上の地図は 1910年、第一次世界大戦が始まる少し前のドイツ帝国のテューリンゲンの地図です。こういうのを見る度に「どうしてこうなった?」とか、四色定理を提起した人って天才だなとか思ってしまいますね。四色定理は「日常的な直感で説明すると「平面上のいかなる地図も、隣接する領域が異なる色になるように塗り分けるには4色あれば十分だ」という定理です。(Wikipedia)
(但しこのテューリンゲンのように飛び地がある場合、飛び地を所属地と常に同じ色にしなければならない、とした場合、何色あっても足りない、といった問題などがある)
シュヴァルツブルク家に関しては日本語 Wikipediaが独語 Wikipediaをかなり原文に忠実に全訳しているので、その一部を引用します。
シュヴァルツブルク家 (ドイツ語: Haus Schwarzburg) は古くから続くテューリンゲンの貴族の家系である[1]。故地スヴァルツィンブルク (Swartzinburg) はテューリンゲン地方ザールフェルト=ルードルシュタット郡ザールフェルトの西にあるシュヴァルツァの谷にあり、文献における初出は1071年のことである。1599年にはシュヴァルツブルク=ルードルシュタット伯領とシュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼン伯領が成立し、両国は後に侯国となった。1918年のドイツ革命により、両国を同君連合の形で統治していたギュンター・ヴィクトル侯は退位させられた。その後、シュヴァルツブルク家の男系は1971年に断絶した。
(中略)
シュヴァルツブルク=ブランケンブルク家当主ギュンター40世フォン・シュヴァルツブルク (1499-1552年) の代にシュヴァルツブルク家の領地は概ね統一された。16世紀初頭に始まった宗教改革は社会にも大きな変化をもたらしたからである。ギュンター40世にはアルブレヒト7世、ヨハン・ギュンター1世、 ギュンター41世およびヴィルヘルム1世の4人の息子がおり、それぞれルードルシュタット、ゾンダースハウゼン、アルンシュタットおよびフランケンハウゼンを継承した。このうち後2人は跡継ぎなく亡くなり、その遺領は1599年11月21日のシュタットティマー条約によりそれぞれヨハン・ギュンター1世とアルブレヒト7世に受け継がれた。このとき決まったシュヴァルツブルク=ルードルシュタット伯領とシュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼン伯領の領域は、その後1918年まで300年にわたって保たれた。シュヴァルツブルク伯領はどちらも神聖ローマ帝国においてはオーバーザクセン帝国クライスに属した。
(中略)
シュヴァルツブルク=ルードルシュタット伯とシュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼン伯は神聖ローマ帝国内において単なる地方領主に過ぎなかったが、1697年に神聖ローマ皇帝レオポルト1世は両伯を1697年に侯に昇叙すると宣言した。シュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼン伯クリスティアン・ヴィルヘルムはこれを拝受したが、シュヴァルツブルク=ルードルシュタット伯アルベルト・アントンはさまざまな理由を挙げてこれを固辞した。しかし1710年に皇帝ヨーゼフ1世から改めて下命があったことから受け入れるに至った。これに合わせて分割相続による所領の細分化や再編を防ぐために長子相続制が導入され、シュヴァルツブルク=ルードルシュタットでは1710年に家法に定められた上で1716年に皇帝の裁可を得た。シュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼンでも1716年に家法に定め、1719年に皇帝裁可を得た。両侯は1754年から諸侯部会に参加した。
1909年にシュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼン侯カール・ギュンターが自殺すると、シュヴァルツブルク=ルードルシュタット侯ギュンター・ヴィクトルはシュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼン侯国摂政となり、同君連合の形で両国を統治した。1910年にはシュヴァルツブルク=ルードルシュタット侯国の人口は約10万人、シュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼン侯国の人口は約9万人であった。その後、1918年のドイツ革命によりドイツ帝国内の君主制が次々と倒されていく中、ギュンター・ヴィクトルも1918年11月23日にシュヴァルツブルク=ルードルシュタット侯、11月25日にシュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼン侯を退位した。 この結果、シュヴァルツブルク=ルードルシュタット自由州とシュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼン自由州が成立し、さらに1920年には他のテューリンゲン諸邦と合邦してテューリンゲン州となった。1925年にギュンター・ヴィクトルが亡くなると、ジッツォ・フォン・シュヴァルツブルクがシュヴァルツブルク家家長となったが、翌1926年にはジッツォも亡くなり、その息子フリードリヒ・ギュンターが家長となった。
フリードリヒ・ギュンターは1971年に子女なく亡くなり、ここにシュヴァルツブルク家の男系は断絶した[7]。なお、フリードリヒ・ギュンターの妹マリー・アントワネットの子女は、ゾルムス=ヴィルデンフェルス伯爵を名乗っている[8]。
(中略)領地と居城[編集]
シュヴァルツブルク家領の領地構造は独特で、主領 (Oberherrschaft) と属領 (Unterherrschaft) に分かれていた。主領はシュヴァルツブルク=ルードルシュタット (現在のザールフェルト=ルードルシュタット郡、ルードルシュタット市) とシュヴァルツブルク=アルンシュタット (現在のイルム郡、アルンシュタット市)、属領はシュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼンおよびシュヴァルツブルク=フランケンハウゼン (現在のキフホイザー郡、ゾンダーズハウゼン市およびフランケンハウゼン市) とされた。
1599年にはフランケンハウゼンがシュヴァルツブルク=ルードルシュタットに移され、シュヴァルツブルク=ルードルシュタットは大きな主領にいくつか小さな属領という構成となったのに対し、シュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼンの主領は小さく、領地の大部分は多数の属領からなっていた。居城はシュヴァルツブルク=ルードルシュタットではハイデクスブルク城、シュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼンではゾンダースハウゼン城に定められた。
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以上、少しごちゃごちゃしましたが、ざっくり言えば 1599年以降、シュヴァルツブルク家の所領はルードルシュタットとゾンダースハウゼンの二つに分割され、どちらかと言えばルードルシュタットが主で、ゾンダースハウゼンは従の立場にあったようです。実際、町を歩いてみると、人口はこちらルードルシュタットが約 24,000人に対し、ゾンダースハウゼンは約 21,000人とさほど違わないにも関わらず、ルードルシュタットのほうがかなり大きく栄えていたように感じます
★★★ ルードルシュタット Rudolstadt -2- に続きます