誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(40):★★デトモルト Detmold -8-

★★デトモルト Detmold -7- からの続きです

さて、満を持してデトモルト訪問のハイライトでもある巨大な建造物を見に行きます。町からは南西の方角に約 4km少し・・・上り坂なのでバスを利用します。Hermannsdenkmal ヘルマンの記念碑!像の高さ 26.57メートル、台座も含めた高さは 53.46メートルとドイツで最も高い像ということで、その巨大さに圧倒されます!

ド~~~ンッ!(笑)

アップでもう一丁!ド~~~ンッ!(笑)

Hermannsdenkmal ヘルマン記念碑

「ヘルマン記念碑は、トイトブルクの森南部のノルトライン=ヴェストファーレン州デトモルト市領内のヒッデセン地区付近にある巨像である。エルンスト・フォン・バンデルの設計により、1838年から 1875年にかけて建設され、1875年 8月 16日に落成した。

この記念碑は、ケルスカー族(Cherusker:ケルスキ族と記述されることもある)の王子アルミニウスを記念するもので、特に西暦 9年に彼の率いるゲルマン民族がプブリウス・クインティリオス・ヴァルス(Publius Quinctilius Varus)率いるローマ軍団17、18、19に決定的な敗北を与えたいわゆるトイトブルグの森戦いのことを指している。

像高 26.57メートル、全高 53.46メートルで、ドイツで最も高い像であり、1875年から 1886年に自由の女神像が建設されるまで、西側世界で最も高い像であった。」(独語 Wikipediaより。以下同様。

歴史的背景

この像は、19世紀のドイツの政治状況を背景に見るべきもので、「独仏遺伝的敵対関係」という言葉があるように、数世紀にわたる独仏の対立が特徴的な背景があった。ナポレオン・ボナパルト率いるフランスとの戦いに敗れ、ドイツが政治的に分断されたため、知的エリートはますますゲルマンの過去に民族のアイデンティティを求めるようになった。アルミニウスが「ドイツ」(実際には「ゲルマン」)諸部族の最初の統一者として評価された時代、特に16世紀に人文主義によってローマの歴史家が再発見されて以来、ドイツ語圏ではアルミニウスの姿が知られていたため、この姿が提示されたのである。

19世紀の民族的モニュメント

レーゲンスブルク近郊のヴァルハラ(1807年、ヘルマンに始まる)、あるいは1877年からライン川沿いのリューデスハイム近郊のニーダーヴァルト記念碑など、古典様式が主でありながら民族ロマン派のテーマを取り入れたゲルマニアを描いた記念碑の建設も、こうしたアイデンティティーの模索の結果であった。

Von Avda – Eigenes Werk, CC BY-SA 3.0, ソースはこちら

Von Martin Kraft // photo.martinkraft.com, CC BY-SA 3.0, ソースはこちら

所在地

ヘルマン記念碑は、デトモルト市の中心部から南西に約 4.5km、標高 386mの深い森に囲まれたグローテンブルク(Grotenburg)にあるグロッサー・ヒューネンリング(der Großer Hünenring)という環状の城壁群の中に建っている。

当時の研究によると、建築家のエルンスト・フォン・バンデルは、ヴァルスとの戦いがトイトブルクの森で起こったとまだ思い込んでいたようだ。しかし、グローテンブルグが選ばれたのは、実用的かつ美的な理由からである。リッペの公爵は、記念碑を丘の上に建てれば、遠くからリッペを見渡すことができるので、その条件として、建築用地を提供することを望んだだけであった。一方、考古学の専門家の多くは、ニーダーザクセン州のブラムシェ近郊のカルクリース(Kalkriese bei Bramsche in Niedersachsen)遺跡をヴァルスとの戦闘の場所として最も可能性の高い場所に分類している。

建造の歴史

1838年に建設が始まった。ハインリッヒ・ハイネは 1843年と 1844年に「…デトモルトに記念碑を建てる、自分も申し込む」と報告している。

1846年、記念碑の台座が完成した。1848年の革命後の反動期には、財政的にも政治的にも工事続行への関心が薄れ、1863年まで工事は中断された。この状態は、ヨーゼフ・ヴィクトル・フォン・シェフェルの『Als die Römer frech geworden』(1849)の最後の詩にも反映されている。1869年 6月にプロイセン王がこの建設現場を訪れ、そしてその後普仏戦争(1870-1871)を経てドイツ帝国が誕生してから、この記念碑計画は再び盛んとなったのである。帝国議会は、さらなる建設のために 1万ターラーを承認し、ヴィルヘルム 1世は同額を寄付した。フランツ・ヨーゼフ 1世が 1,082ターラー、他のドイツ王室が 13,500ターラー、外国から 1,500ターラーを寄贈したのだ。総費用は 9万ターラー。エルンスト・フォン・バンデルは、最初から設計費を免除していた。そのため、このモニュメントの価格は、例えばバイエルンの半分程度で済んだ。

このモニュメントの制作は、その作者である彫刻家エルンスト・フォン・バンデルと切り離すことはできない。彼は、生涯をこの記念碑プロジェクトに捧げ、特に建設が中断された時期には、その完成のためにさらなる財政的支援を求めようとした。作業中、バンデルは記念碑の下に建てられた丸太小屋「バンデル小屋」で一時期生活しており、現在も見学することができる。バンデルは 1875年に竣工式を経験することができたが、1876年に亡くなっている。

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Wikipediaの「Deutschlandslied(現在のドイツ国歌)」などの項目から咀嚼しておくと・・・

ナポレオン軍に席巻される前のドイツは、神聖ローマ帝国の枠組みで諸邦が林立していたわけですが(主にドイツ語が話されていた地域は39の国家(帝国1、王国5、選帝侯国1、大公国7、公国10、侯国11、自由都市4))、これをウィーン会議ではこれらの諸国家が結集してドイツ連邦を結成することが決まります。が、当のドイツ連邦にはその全てを束ねる国家元首も、全体を統括する役所や法律もなく、共通の経済、関税制度、軍隊も保持していなかったという状況でした。

1812年の欧州地図:クリックすると拡大します

ここから 1871年にドイツ帝国(Deutsches Reich)が建国される過程で、ドイツが国民国家として纏まっていく為のさまざまなシンボルが作られていきます。「Deutschland, Deutschland über alles,Über alles in der Welt(世界に冠たるドイツ)」で始まる有名な Deutschlandslied(1841年)と、このヘルマン記念碑はその代表格ですが、帝国が樹立された以降も様々なモニュメントが建造されていきます。

また当時はフランスが宿敵と位置付けられており(双方ともカール大帝=シャルル・マーニュを祖としていることから「近親憎悪」の側面も・・・)、ゲルマン諸族を纏めてローマ軍を撃破したアルミニウスが、フランスをローマに見立ててそれに打ち勝つシンボルとして選ばれたという側面もあります。ヘルマンの像は西方=フランスの方角に向いているのです。

なおケルスキ族の英雄「アルミニウス Arminius」という名前は「当時のローマの命名規則から、アルミニウスは市民権を得た際に与えられた養子名であるか、さもなければケルスキ名ではないと思われる。 アルミニウスという名は最終的にエトルリア起源で、ヴォラテレーで見つかった碑文に armne や armni として登場する」とあります。

アルミニウスをヘルマンと訳したのは 16世紀のことで、おそらくマルティン・ルターが最初であろう。ドイツ語では、アルミニウスは伝統的に Hermann der Cherusker(「ケルスキのヘルマン」)または Hermann der Cheruskerfürstとして知られていた。ヘルマンの語源は古高ドイツ語のheri「戦争」とman「人間」から来ており、「戦争の男」を意味する」とのことです。こんなところにマルティン・ルターが!

なお市内の劇場の近くに巨大なヘルマンの足が設置されています。

★★デトモルト Detmold -9- に続きます

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