- 2021-4-23
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クヴェートリンブルク Quedlinburg -2- からの続きです
まずはホテルの目の前にある Schlossbergに登り、この町のシンボル的建物の「聖セルヴァティウス教会 Stiftskirche St. Servatius」に行ってみます。
これまでご紹介してきた町は、宗教改革のルターに関わりがあったとか、バッハがオルガンを弾いていた町とか・・・町として歴史に登場したのは古くても、16・17世紀ごろにハイライトがあったところが多かったのですが、ここクヴェートリンブルクはもっと前、900年代後半あたりから歴史の表舞台に登場します。
西暦800年にカール大帝(Karl der Große:フランスではシャルル・マーニュ Charlemagne)がローマ皇帝として戴冠し、欧州ではこれをもって神聖ローマ帝国の起源とすることが多いようです。その後の領土相続争いなどで暫くゴタゴタしたあと、東西のフランク王国に分かれていき、東フランク王国(Ostfrankenreich)はその後のドイツの原型となっていきますが、その流れの中で東フランク王のオットー大帝(Otto der Große)が再びローマ皇帝として戴冠し、これを以て神聖ローマ帝国の起源とする考え方もあるようです。
そしてこのクヴェートリンブルクは、オットーの父親ハインリッヒ1世(Heinrich I.(Ostfrankenreich))ゆかりの地であるのです。ドイツ語 Wikiからの引用ですが:
「クヴェートリンブルクは、10世紀にザクセン朝が復活祭を祝うための Königspfalzとなったことで重要性を増した。922年4月22日付のハインリッヒ1世の文書に villa quae dicitur Quitilingaburgとして初めて言及されている。
その後、ハインリッヒはこの地を自分の埋葬地に指定した。936年にメムレーベンで死去した後、遺体はクヴェートリンブルクに移され、シュロスベルクの宮中礼拝堂に埋葬された。彼の未亡人である王妃マティルデ(Mathilde von Ringelheim)は、ハインリッヒの息子で後継者のオットー1世に、死者の追悼を目的とした尼僧院の設立させた。30年間、彼女は修道院長になることなく、自ら財団の設立を主宰した。
オットー1世は不定期にクヴェートリンブルクを訪れ、復活祭や父の記念日を祝った。941年には、弟のハインリッヒが暗殺を企てたが、危うく逃れた。966年の復活祭の日には、オットーの娘マティルデが修道院長として修道院の運営を任された。その 2年後の 968年 3月 14日に祖母が亡くなり、夫と一緒に埋葬された。彼女の墓と石の石棺は残っていますが、ハインリッヒの埋葬された部屋は空である。」とあります。(正直、ちょっとしっくり来ていない(笑))
長くなるので、詳細はリンクを張った Wikipediaから辿ってみて下さい。できれば日本語版より独語版から翻訳アプリなどを駆使して意味を掴むのがお勧めです。ただ、ハインリヒ、マティルデ、オットー、その後継者たちの人間模様は今日の感覚ではちょっと理解を越えるものがあると思います。まあ、日本でいえば平安時代(オットー大帝の戴冠が 962年、藤原道長誕生が 966年、源氏物語の成立が 1007年とされている)であり、源氏物語に描かれた登場人物の思考や行動様式が今の基準ではやや理解に苦しむのと似ているかもしれません。
もう一つ理解しづらいのは Königspfalzという概念。宮廷とか王宮とか訳されることが多いようですが、Wikiには日本語がありません。で、中文を見たところ「皇帝行宮」とあり、これがしっくり来るように思います。この時代の国(例えば東フランク王国)は、今の近代国家や、ドイツのかつての領邦国家のように「ベルリンやドレスデンといった確固とした首都があり、そこに支配者の居館があり、そこに行政機構の中心も置かれている」というイメージではなかったようです。
Reisekönigtum(旅する王国?)という概念で支配者(皇帝・王)はその支配地域を移動しながら統治したとされており、その際の宿泊場所が Königspfalzということです。正しく「皇帝行宮」ですね。クヴェートリンブルクもそんな中のひとつですが、こちらに Königspfalzが置かれた場所の一覧があります。
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↓↓ シュロスベルクから町を見下ろした眺めです
クヴェートリンブルク Quedlinburg -4- に続きます