★★トルガウ Torgau -6- からの続きです
さて「ルネサンスの町 Stadt der Renaissance」を標榜しているトルガウですが、どこがルネサンスなんでしょうか?ちょっと調べてみようと思います。
市庁舎:Gemeinfrei, Link(ソース:独語 Wikipedia)
ルネサンスってそもそも何?というところからお知りになりたい方は、池上彰氏に教えてもらうか(笑)、Wikipedia(日本語、独語)、「世界史の窓(受験生向け)」などをお読みください。ここでは独語 Wikipediaで「Sächsische Renaissance ザクセンのルネサンス」という項目をご紹介します。ちょっと長くなりますが、自分も興味ある分野なので DeepL翻訳での素訳を掲載します。なお「ザクセンの」と絞り込んであるということでお分かりの様に、ドイツには「ヴェーザー川流域」「北ドイツ」「ヴェストファーレン」「マイン川流域」「ネッカー川流域」「アルペン・フォアラント」などの広い地域や都市にルネサンスの影響がみられます。
まず「ザクセン・ルネッサンスとは、ルネッサンス期の特殊な建築様式のことである。特にエルベ川中流のザクセン選帝侯の地域に広まっていた。スタイルの形成には、主にボヘミア、イタリア、ポーランドからの影響を受けた。イタリアの芸術家一族は、依頼を受けて放浪し、その移動ルートに沿ってザクセン文化圏を歩き回ったため、様々なスタイルが混在し、独自のスタイルが発展していった。」とあります。イタリアに起こったルネサンス運動が他地域に広まるには、伝道師的な人物が巡回するとか、パトロン的な人物がそういう伝道師を招聘するなどの動きが欠かせません。ここではザクセン選帝侯がその役割を果たしたということでしょう。
「ザクセン州におけるルネッサンスの最も重要な先駆者は、選帝侯ザクセン人の建築家 Arnold von Westfalen(1425年頃~1481年)で、マイセンのアルブレヒト城を後期ゴシックからルネッサンスへの移行期に制作した。また、Schloss Hartenfels、Schloss Wurzen、Schloss Hinterglauchau、Schloss Heynitzなどにも過渡的な形態の建築装飾が見られる。
ザクセンのヴェッティン王朝は、イタリアで生まれた新しい建築様式をドイツ全土に広める上で決定的な役割を果たした。 王朝は独自に大規模な建築物を発注し、選帝侯モーリッツの下ではイタリアの芸術家をザクセンに呼び寄せた。ザクセンで活躍した著名な芸術家や建築家は、ルガーノ出身のジョヴァンニ・マリア・ノッセーニ、ハンス・フォン・デーン=ロートフェルザー、ベネデット・トラ(※1525年ブレシア/イタリア出身、†1572年)、ガブリエル・デ・トラ、カスパー・ヴォイト・フォン・ヴィエラント、ハンス・イルミッシュ、ローカス・ツー・ライナール、カルロ・ディ・チェーザレ・デル・パラージオなどである。
フランツ・メイドブルクは 1519年にアンナーベルグの町教会の主祭壇を建設し、ザクセンのルネサンスの先駆けとなった。ザクセンの建築家たちは 1530年頃からルネサンス様式を適用し、さらに北ドイツ(ブランデンブルク、メクレンブルク)に輸出していった。」・・・とあります。
ここで触れられているメクレンブルクでの典型例は「シュヴェリン城 Schloss Schwerin」です。このシリーズでもご紹介する予定です。
von Wilhelm Lübke 1872, Gemeinfrei, Link
von Wilhelm Lübke 1872, Gemeinfrei, Link
✙✙ 関心のある方はクリック下さい。全文を DeepL翻訳しています(素訳レベル)
CC BY-SA 3.0, Link
「1485年にヴェッティン家の領地がエルネスティン家とアルベルティン家に分割されると(ライプツィヒの分割)、トルガウはヴィッテンベルクと並んでエルネスティン家の選帝侯の優先居住地となった。トルガウのハルテンフェルス城は、16世紀半ばまでに大幅に改築された有名なヴェンデルシュタインを擁し、ドイツで最も重要な初期ルネッサンス様式の建築物のひとつである。ヴィッテンベルクを降伏させ、トルガウがアルベルティーナ家に譲渡された後、モーリッツ選帝侯は当初、城の建設を続けていた。16世紀末にドレスデンに移されたことで、ハルテンフェルス宮殿は、1548年から 1556年にかけて大幅に増築されたドレスデンのレジデンツ宮殿が経験したような、後に行われる様式の変更から守られた。
ドレスデン宮殿のファサードにはスグラフィートがふんだんに施され、モーリッツの弟で後継者のアウグスト選帝侯(1553年から 1586年まで統治)が完成させ、ザクセン・ルネッサンスの代表的な作品となった。しかし、その後、火災に見舞われて内部はバロック化され、19世紀にはネオ・ルネッサンス様式で外壁ファサードが作り直された。
ザクセンの領土には、ボヘミア王家に属していた上・下ラウジッツ侯国(Markgraftümer Ober- und Niederlausitz)がまだ含まれておらず、ザクセンに帰属するのは 1635年になってからであった。また、ザクセン州はさらに北のフレミング地域にまで広がっていた。ルネッサンス初期には、ヴェッティン家の土地は分断されていた。ルター派の宗教改革は、ヴィッテンベルクとトルガウを中心としたエルネスティーナ朝のザクセン選帝侯国で始まったが、南に隣接するアルベルティーナ朝の領地(主にマイセン侯国)では、1539年まで宗教改革が行われなかった。1547年にシュマルカルデン戦争が終結した後、上ザクセン・マイセン地域(obersächsisch-meißnische Raum)は政治的に統合された地域を形成した。
芸術と建築の発展は、1553年から 1586年に亡くなるまで統治した選帝侯アウグストゥスによって特に促進された。建物や建築に関する問題に大きな関心を持っていたことがうかがえる。彼の書斎には多くの建築関係の書物や建築部材の見本帳があった。彼の主な作品は、1568年から 1572年にかけて建設された巨大なアウグストゥスブルクの狩猟用の城である。 幾何学的な理想のプランをこれほどまでに均一に実現したものは、ヨーロッパでは他に例を見ない。オリジナルモデルのデザインは、アウグストゥス自身にまで遡ることができる。さらに、兄のモーリッツが着手したドレスデン・レジデンツ宮殿の大規模な改築(1553-1556)を完成させた。彼はイェーガーホーフ(ドレスデン)を建設し、ノーセン、グリレンブルク、シュヴァルツェンベルク、そして新しいゴンメルン城など、多くの古い城を狩猟用の宿に改築した。 妻のためには、アナブルク城とリヒテンブルク城を建設し、ディッポルディスヴァルデ(Dippoldiswalde)とフロイデンシュタインを公式の城とした。彼の後継者であるクリスチャン 1世(1586-1591)は、父の建築活動を引き継いだ。ザクセン州でこの建築様式が広まるきっかけとなったのは、何よりもノッセーニの作品であった。
このスタイルは、都市部の民間建築活動にも影響を与えた。裕福な市民は、ドレスデンやマイセンで建設されていた壮麗な建築物を真似して、アーチ型の門を持つ家を建て、ファサードには 1階の上に四角いオリエルがあり、それを2つ並べることが多かった。その他、ルネッサンス期のドメスティックなスタイルは、フロントドアの装飾や窓枠に見られる。木製の天井には、素晴らしい装飾が施されている。この時代のタウンハウスの多くは、ドレスデンの影響を受けて設計されていると言われている。ザクセン州では、建物だけでなく、祭壇や墓石もデザインの変化の対象となった。マイセン、ピルナ、フライベルク、ゲルリッツ、ツヴィッカウ、トルガウ、ヴィッテンベルクなどの町には、現在でもルネッサンス期のタウンハウスが数多く残っている。
1656年からは、ヴォルフ・カスパー・フォン・クレンゲル(1630-1691)が Oberlandbaumeisterに就任し、彼の下で後期ルネッサンスの形式から新しいバロック様式への置き換えが発表された。その「前哨戦」として、ヨハン・ゲオルク・シュタルケは、1678年からヨハン・ゲオルク 2世のために、フランスやイタリアのアーリーバロックをモデルにして、大庭園にドレスデン宮殿を建設した。ヨハン・ゲオルクの孫であるアウグスト強王(August der Starke)は、祖父の華麗な宮廷行事に感銘を受け、1694年以降、新しい建築様式をかつてないほどの勢いで推進し、ドレスデン・バロックを生み出した。しかし、ルネッサンス期に培われた建築の伝統がどれほど長く影響を与え続けたかは、バウツェンのオルテンブルク城のルネッサンス期の切妻に見ることができる。この切妻は、マルティン・ペッツシュの設計によって 1698年になってから建てられたもので、同様の、よりバロック的な移行様式の切妻は、1660年頃のアルトルニッツ城にすでに取り付けられていた。」
↑↑ この折り畳んだ部分を池上彰的に要約すると(全文は詳しすぎてゴチャゴチャです(笑))「ザクセンを治めていたヴェッティン家は 1485年にライプツィヒの分割条約で領土を分割し、兄アルベルトは今のザクセン州あたりを、弟のエルネストは今のテューリンゲン州あたり&「選帝侯」の地位を貰ったのです。その時、トルガウはヴィッテンベルクと並んで、弟エルネスト系の優先居住地とされ、ハルテンフェルス城がそれにふさわしいように拡充されます。
ところが、弟エルネスト系は選帝侯でありながら、ルターを擁護し宗教改革を後押しし、ついにシュマルカルデン戦争で、カトリックのボスである神聖ローマ皇帝に喧嘩を売って・・・敗けます(笑)お兄ちゃんのアルベルト系は皇帝側についたので「よしよし」ということで、弟系の領土の一部と、弟系から召し上げた選帝侯のポジションをご褒美として貰います。この時、トルガウも弟系から兄系に割譲されます。が、兄系の拠点はドレスデンだったので、さほど重要視はされず、ドレスデンがその後「ドレスデン・バロック」と呼ばれるバロック様式に発展していく一方、取り残されたトルガウにはルネサンス様式が多く残っている・・・そんな感じです。
独語 Wikipediaには、各都市の主要な建物が画像と共にリストアップされています。素晴らしいことに、教会や市庁舎などの重要なものだけでなく、一般の建物も網羅的に掲載されています。トルガウのリストにリンクを張っておきます
Liste der Kulturdenkmale in Torgau (A–L)
Liste der Kulturdenkmale in Torgau (M–Z)
リストの中で「Renaissance」で検索すると約 140件の建物がヒットします。この中からいくつかの画像を引用しておきます。
↓↓ クリックするとスライドショーになります
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Ehemalige Fleischbänke Markt 1 in Torgau
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Wohnhaus, Scheffelstraße 2 in Torgau
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Doppelvilla, August-Bebel-Straße 1
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Wohnhaus, Bäckerstraße 7 in Torgau
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なお、ザクセン・ルネサンスの代表的な建築物はこちらのリンクに画像があります。
★★トルガウ Torgau -8-に続きます