- 2020-12-21
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誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(15):★★コーブルク Coburg -2- からの続きです。
午前中に次の目的地に移動する必要があるので、朝食を軽く済ませて街歩きをしたのですが、いくつか重要な建物などを見逃していたので Wikipediaの画像や情報で補足します。
ザクセン・コーブルク公の居城があるはずとは思っていたのですが、市内からかなり離れたところにある「Veste Coburg」のことと勘違いしていて、うっかり「Schloss Ehrenburg」を見落としていました。
上の地図で赤い矢印を付けた場所です。よく見れば、その向かいには「Loreley Coburg」という由緒あるレストランがあり、昨夜写真を撮っていたのです。
同レストランのサイトには下記の記述があります:
コーブルクで最も有名なレストラン「ローレライ」は、400年以上の歴史を振り返ることができます。1508年まで遡ると、Herrngasse 14の家の所有者は、Ernst Cyriaciの「Coburger Häuserbuch」に名前で記載されています。1581年にプロパティはパン屋(ベック)と呼ばれました。1597年に家を購入したマスターベイカーのGeorg Knauerは、副業としての醸造業を営んでいました。 そこで彼はボリュームたっぷりのパンに加えて自家製のビールを販売していました。
このように、1600年頃にはすでにこの地所は、大麦ジュースが豊富に流れ、公の場では禁止されていた喫煙が許されていたということで、歓楽街となっていました。その後、店に名付けられた「ヘレンベック」という名前は、おそらく通りの名前にまで遡ると思われます。
Schlossplatz (Coburg)
コーブルク・シュロスプラッツは、バイエルンで最も注目に値する広場のデザインのひとつです。 広々とした広場は、エーレンブルク宮殿の前庭として設計されており、コーブルクのかつての王宮の中心に位置しています。
宮殿の広場は、1825年からエルンスト 1世公のもとで、1835年にグラフェンガッセの東部の家屋が解体され、その後、北側の宮殿の前にあった古いおよび農場と付属の建物が解体されました。1849年まで、カール・フリードリッヒ・シンケルとピーター・ジョセフ・レネの参加により、歴史的で古典的なスタイルで代表的な広場として現在のデザインで建てられました。(Wikipediaから)
Schloss Ehrenburg
エーレンブルク宮殿(Schloss Ehrenburg)は、ザクセン・コーブルク公爵の住居の宮殿でした。 城は、オーバーフランケンの都市コーブルクの歴史的な旧市街の東端にあります。
それは 1543年にフランシスコ会の修道院を改造したのが起源です。16世紀の終わりには拡張工事が行われました。1690年に宮殿はバロック様式の3棟の複合施設に再建され、19世紀には、カール・フリードリッヒ・シンケルのデザインに基づいたゴシック様式のファサードと、フランス帝国スタイルでデザインされたリビングルームとパーティールームが与えられました。今日、城にはコーブルク州立図書館があります。 ガイド付きツアーでは、約 25の歴史的な内装の客室を見ることができます。
Landestheater Coburg
Landestheater Coburgは、中規模の 3部構成の劇場(オペラ/オペレッタ、ドラマ、バレエ)であり、コーブルク市とバイエルン自由州が共同で支援しています。 コーブルク城広場にある古典主義の建物には 480席があります。
Veste Coburg
要塞に改築された中世の城の複合施設であるフェステ・コーブルク Veste Coburg(「フランケンの王冠」とも呼ばれる)は、テューリンゲンとのフランケン北部の境界地帯にあるコーブルクの街を見下ろすようにそびえ立っています。それは約 135×260メートルの面積を持ち、非常によく保存されています。要塞は市内中心部から約 160メートルの高さにあります。コーブルク・ホフガルテンは城の丘の斜面に街に向かって伸びています。かつてコーブルク公爵の二次住居兼狩猟小屋だった姉妹城ヴェステ・ヘルドブルクは、バイエルンとのテューリンゲン境界地帯に見えています。
ヴェステ・コーブルクはその歴史の中で征服されることはありませんでしたが、1635年 3月の三十年戦争中に、ヨハン・エルンスト公爵が降伏を命じたと思われる偽造された手紙の助けを借りて 5か月の包囲の後、フォン・ランボーイ将軍がこの地を奪取しました。
市内からだと緩い上り坂で、40分程歩くことになるので断念しましたが、次回は是非行ってみようと思います。
駅に向かう Mohren Strasse 9番地の家の前に、ナチスによって強制連行されたユダヤ人が住んでいた家の前に、その記録として銘版を埋め込む「躓きの石 Stolperstein」を見つけました。Wikipediaによると「1922年以降、コーブルクは国家社会主義の有力な中心地の一つとなっていった。1929年にはすでに、ドイツの都市で初めてNSDAPが市議会で絶対多数を占め、1932年にはアドルフ・ヒトラーに名誉市民の称号を与えたドイツ最初の都市となった。」との記述があります。Coburgの国家社会主義の活動についてはこちらに詳細な記述(独語)があります。また、コーブルクには 54の住所に 110の「躓きの石」が埋め込まれているそうですが、その全リストも Wikipediaにアップされています。このあたりがドイツの凄いところですね・・・
駅にはコンクリートの壁に、かつてのザクセン・コーブルク&ゴータ公国の主要な人物の名前があります。次の目的地に向かいますが、途中でビールで有名な「Kulmbach」という駅名が見え、ちょっと心が動きます(笑)
誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(15):★★コーブルク Coburgの項を終わります。
このシリーズの都市のリストはこちらにあります。