- 2023-2-24
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さて、市庁舎を右手に見て駅の方に戻ることにします。今回は Wikipediaなどから AGFAと ORWOに関する情報を整理しておきます。AGFAの創業者の一人「Paul Mendelssohn Bartholdy」は、あの有名な作曲家のメンデルスゾーン(Felix Mendelssohn Bartholdy)の息子だったってご存じでしたか?
会社沿革・体制
創業
化学者のパウル・メンデルスゾーン・バルトルディ(著名な音楽家 Felix Mendelssohn Bartholdyの息子)とカール・アレクサンダー・フォン・マルティウス(現在でも繊維の染色に使用されているアゾ染料Bismarckbraunの発見者)は、1867年にベルリン近郊のルンメルスブルクにアニリンファブリカーション社(Gesellschaft für Anilinfabrikation mbH)を設立した。
1872年には早くも、同じ分野で活躍していたマックス・アウグスト・ヨルダンの化学工場をベルリン近郊のトレプトウにて買収している。ヨルダンの工場は1850年12月11日に設立され、染料を中心とした最終製品を生産していたが、Gesellschaft für Anilinfabrikation mbHは中間製品に集中していた。
このように、両社は互いに完璧に補完し合っていたのである。1873年7月21日、合併により Actien-Gesellschaft für Anilin-Fabricationが誕生した。その後、1897年4月15日に「写真用化学薬品」の商標として登録され、AGFAと名付けられた。
1924年には、有名な「アグファひし形」がロゴとして追加された。
会社の始まりには1850年、1867年、1873年の 3つの年がありうるが、通常は1873年の株式会社設立を始まりと見なすが、アグフア自身は1867年に設立されたと考えている。
化学製品の生産に成功し、1878年にトレプトウの生産設備が拡張された。1882年には、科学研究所が設立された。近隣の土地に空き地が無くなったため、ビッターフェルト褐炭鉱区に位置し、エネルギー供給に有利なグレッピン(Wolfenの隣町)に分工場が作られた。また、賃金も20%ほど安かった。この工場は1896年3月17日に開所した。ベルリンの大気汚染、特に近郊の鉄道の蒸気機関車による汚染がひどく、フィルム素材の生産が困難になったため、独立したフィルム工場が建設された。
フランクフルト/マンハイム地区も検討されたが、最終的にはファルベンファブリーク・ウォルフェンの近くに25.2ヘクタールの土地を購入した。そのほとんどがヴォルフェンの自治体であったため、最終的に工場は「Filmfabrik Wolfen」と呼ばれることになった。1909年3月に工場の計画が立てられ、1910年7月19日には早くも建築許可と化学工場としての認可が下りた。この工場はヨーロッパで最大、世界でもアメリカのロチェスターにあるイーストマン・コダックに次いで2番目に大きなフィルム工場であった。
第一次世界大戦
第一次世界大戦が始まると、多くの輸出市場がなくなり、X線プレートや航空写真用フィルム、いわゆる「Fliegerfilm」の需要が高まった。野戦映画館でもフィルム素材が求められ、ディスクや呼吸マスク用フィルターも生産された。アグファ・ウォルフェンの従業員数は当初 504名から 335名に減少したが、戦争が進むにつれて1000名をはるかに超えるまでに増加した。
I.G.ファルベン
1885年、コンゴレッドの製造に関してバイエル社と特許紛争が発生し、将来の特許の共同使用に関して合意に達した。1904年には、AGFA、Bayer、BASFを含む染料化学の共同組合(Dreierbund)が設立された。1925 年、これによって I.G. Farbenindustrie AG が設立された。アグファは写真化学事業を引き継ぎ、Bayerからミュンヘンのカメラ工場と印画紙を製造するレバークーゼンの工場を譲り受けた。この I.G. ファルベン第三事業部は、ベルリン SO 36、すなわち旧ヨルダン博士工場の住所であるローミューレン通りのトレプトウに本部を置いていた。第三事業部の責任者は、創業者の息子であるパウル・メンデルスゾーン・バルトルディであった。
1928年には、1842年にニューヨークで設立されたアンスコ・フォト・プロダクツ社(Ansco Photo Products Inc.)を買収した。しかし、1941年、アメリカ政府による差し押さえにより、再び失われてしまった。
トリビア:ここに登場する BASFは Badische Anilin- & Sodafabrik(バーデン・アニリン&ソーダ製造会社)から頭文字を取って命名されました。AGFAも Actien-Gesellschaft für Anilin-Fabricationです。
Anilin(アニリン)は染料などの工業製品に広く使用される基礎的な化学物質で、ドイツの化学工業の発展を支えた重要な化合物です。
国家社会主義時代
国家社会主義時代、アグファはダッハウ強制収容所のミュンヘン支所(Agfa Kamerawerke)やオランダの中継所カンプ・ウェスターボークで強制労働者を大量に使用した。また、1943年から1945年にかけて、ミュンヘン・シュタデルハイム少年刑務所内の「アグファ・キャンプ」でアグファ社のために強制労働者が使われた。戦後、アグファ社の経営陣の一部は、アメリカの軍事法廷でI・G・ファーベン裁判を受け、裁判にかけられた。
再建
1945年以降、アグファの工場は異なる占領地域に所在していたため、新たな統合は困難であった。また、統合を何としても阻止しようとする勢力も存在した。特に、ベルギーのゲバルト社が買収に関心を寄せていた。ミュンヘンのアグファカメラ工場はアメリカ占領地、レバークーゼンのアグファ印画紙工場はイギリス占領地、ヴォルフェンのアグファフィルム工場はソ連占領地にそれぞれ位置していた。全ての工場は1945年に既に生産を再開することができた。アメリカでは、アグファ-アンスコ協同組合(ビンガムトン)が再び流通を担当した。しかし、その間にもアンスコ・フィルムの生産は行われていたため、アグファ・フィルムには関係なかった。
ウルリッヒ・ハーバーランドらのスタッフの努力により、ついに高等弁務官はバイエルの事業継続を認めるに至った。その結果、1952年4月18日、レバークーゼンに Agfa AG für Photofabrikationが設立された。連合国によるカメラ製造の管理は1953年3月18日に終了し、3月20日に Agfa-Camerawerk AGが設立された。1957年、この 2社が合併し、Agfa AG Leverkusenが設立された。
アグファ・ヴォルフェン
1909年頃、光化学製品の製造拠点がトレプトウからヴォルフェンに移された。第二次世界大戦後、フィルム工場はまず米軍に、次に在ドイツソビエト軍管理局(SMAD)に引き継がれた。この間、Filmfabrik Wolfen はソビエト連邦の賠償請求権を解決するため、ソビエトの株式会社として組織された。
アグファの経営陣は終戦前に重要な特許をすべてレバークーゼンに移管していたが、東ドイツのカウンターパートは西ドイツのアグファ社に大きな問題を引き起こした。Filmfabrik Wolfenもアグフ ァのロゴを付けて製品を販売し、顧客を混乱させた。当初、東ドイツ側は自分たちがアグフ ァの法的後継者であるという立場を取っていた。しかし、裁判では、ソビエトの株式会社は後継者になり得ないという理由で、この戦略は通用しなかった。
しかし、意外なことに、その後ドイツ民主共和国政府(東独政府)はアグファのブランド名を保持することにこだわらなかった。社会主義的生産による製品は品質が高いので、大きな名前は必要ないとの考えからだった。しかし、ヴォルフェンでは、その名前を手放したくはなかった。しかし、2社間で協定を結ばなければ、第三者に権利が渡ってしまう恐れがあった。そこで、1956年、1964年まで有効な商標協定が結ばれた。この協定により、東欧諸国では東独の Filmfabrik Wolfen、フランスとユーゴスラビアを除くそれ以外の地域では西独の Leverkusenが AGFAブランド名を使用することが許された。この2カ国については、国際裁判所が判断することになった。それでも、東ドイツのアグフ ァ製品は西ドイツの市場に何度も流れ込んだ。
ソビエトの株式会社としての組織形態が終了後、東ドイツの会社は1964年まで VEB Filmfabrik Agfa Wolfenと VEB Film- und Chemiefaserwerk Agfa Wolfenという名称を使用していた。
1964年以降、ヴォルフェン工場は Original Wolfenを意味する ORWOに名称を変更した。
買収
小さな会社
生産能力を拡大するため、アグファは1950年代から1960年代にかけて、規模が小さ過ぎて競争力のある製品を提供できなくなった複数の小企業を買収した。労働力不足が深刻化する中、AGFAを含む全ての企業が十分な台数を全く生産できないために、各地に工場が分散することになって発生するドイツ国内の長い輸送距離を受け入れざるを得なかった。
まず1952年、北ドイツのフレンスブルク・ミュルヴィクの UCA – Vereinigte Elektro-Optische Werke GmbHを買収したが、同社は 1948年頃に旧海軍工科学校でファインダーカメラ、さらにはレフ機の製造を開始したことが始まりであった。1962年にはハンブルクのカメラメーカー「Iloca」を、1969年にはアルテンシュタット(オーバーバイエルン州)にあるカメラとプロジェクションレンズを製造する「Optische Werk Dr. Staeble」を買収したのである。
カメラのシャッターやライトメーターを自社で製造するため、アグファは1959年からSaverne(アルザス)のFabrique d’Horologie La Vedette SA、1960年からシュヴェニンゲンの Otto Schlud、OSCO-Uhrenと共同で時計製造も手がけた。その後まもなく、アグファは両社の 50.24%と 75%の株式を取得した。アグファはまた、Chemische Fabrik Vaihingen。Gelatinefabrik vorm、Koepff & Söhne、Mimosa、Hamburg-WandsbekのLeonar-Werkeも買収した。
Perutz(「スモール・ソリューション」)
1961年、アグファAGはミュンヘンの Perutz-Photowerkeの 50%、そして1964年には 100%を取得。Otto Perutzが1880年に設立したこの会社は、当初写真用プレート、1922年からはロールフィルムも製造していた。
アグファ-ゲバルトグループ(「ビッグ・ソリューション」)
既に 1940年代末、ゲバルト(Gevaert)はアグファを買収するつもりでいたが、アグファがゲバルトを買収し、1964年にいわゆるビッグソリューションが実現した。Agfa-Gevaert-Gruppeが設立されたが、それにはレバークーゼンを拠点とするアグファ-ゲバルトAGとモルツェル(Mortsel)を拠点とするゲバルト-アグファN.V.が含まれる。ゲバルトは 1894年にリーベン・ゲバルト(Lieven Gevaert)によりアントワープで設立され、当初は写真用紙のみを製造していた。この合併のために、アグフ ァは外部企業の保有株を全て自社に転換する必要があった。
1981年、バイエル社(Bayer AG)がグループの 100パーセントを取得。1983年、世界売上高59億ドイツマルク(30億ユーロ)、税引前利益 2億9100万ドイツマルク(1億4900万ユーロ)を達成した。
1999年、バイエル社が同社を株式公開。以来、アグファ-ゲバルト社(レバークーゼン)は、モルツェル/アントワープ(ベルギー)の子会社となり、バイエル社(30%)、ゲバルト社(25%)を主要株主としている。
以上、引用元は独語 Wikipediaです。ここには写真化学の発展史や AGFAの歴史的な製品、現在の Agfa-Gevaertの状況などの情報が有ります。日本語 Wikipediaはこちら。