誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(25):★★ノルトハウゼン Nordhausen -7-

★★ノルトハウゼン Nordhausen -6-からの続きです

旧市街には、それを挟むような位置に Stadtpfarrkirche St. Blasii(福音派)と Nordhäuser Dom(カトリック)の2つの歴史的な教会があります。戦災で大きく損傷しましたが現在は修復がなされています。

「ノルトハウゼンの市街地にあるほとんどの教会は、ロマネスク時代に建てられたものですが、純粋な様式を保っている建物はありません。

町の教区教会である聖ブラジイ(Stadtpfarrkirche St. Blasii )は、現在プロテスタントの礼拝所として使われています。1234年のハインリッヒ(7世)の文書に記載されている前身の建物は、今でも教会の塔の下部構造に残っていますが、1487年から 1490年にかけて大部分が取り替えられました。1945年の空襲による被害は、1949年に修復されました。2004年には外装の改築、2014年と 2015年には内装の改築が行われました。」(独語 Wikipediaより)

+ 教会の歴史:クリックすると展開します(独語 Wikipedia)

1220年頃に建てられた前身の建物は、1234年のハインリヒ(VII)の文書に記載されています。ハインリッヒは、父フリードリヒ 2世からの依頼で、ノルトハウゼンの町の北側に教会のある新しい地区、ハーゲンを建設していました。教会の塔の下部構造には、この前身の建物の跡が残っていると言われています。教会は大聖堂の支部に従属していました。1487年から1490年にかけて、身廊は新しい建物に置き換えられ、前の建物の後期ロマネスク様式から初期ゴシック様式の西塔に追加されました。聖歌隊席のヴォールトの要石には、1489年の日付が見られます。

宗教改革後の 1524年、マルティン・ルターの推薦により、ヨハン・シュパンゲンベルグがプロテスタント初の説教師のポストを引き継いだ。彼は、学校で教えたり、啓発的な文章を発表したりして、会衆の枠を超えて名を馳せました。

1612年の火災でも教会は無傷で残りました。1634年 4月 24日、北側の教会の塔に雷が落ち、尖塔が燃えてしまいました。1687年には、教会の塔を確保するために、教会の西側にバットレスが追加されました。Walkenriedの教会の廃墟にあった石が使われています。また、1712年 8月 21日に発生した次の町の大火でも、教会は無傷で済みましたが、牧師館(Pfarrhaus)は全焼してしまいました。

1945年 4月 4日のノルトハウゼン空襲の際、教会は屋根や石組み、特に東側の部分に大きな被害を受けました。クラナッハの絵はビール工場の地下室に運ばれ、そこで焼けてしまいました。1949年には、屋根が修復され、石積みが修復され、内装も新しくなりました。塔や屋根の崩壊の恐れがあったために行われた教会の修復は、2004年に完了しました。その後、2014年と 2015年に内装の修復が行われました。

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もう一つのノルトハウゼン聖十字架大聖堂(Doms zum Heiligen Kreuz Nordhausen)の前身となる建物は、10世紀後半以降に建てられたものですが、ほとんど当時の痕跡はありません。現在の建物は、13世紀以降の再建・新築にさかのぼります。初期ゴシック様式の聖歌隊席が 1230年から 1267年(奉献日)の間に建てられたのに対し、後期ゴシック様式の身廊は 1450年頃に建てられました。1970年代には教会の内部が改装され、2000年代には(2008年に完成)建物の修復が行われました。」(独語 Wikipediaより)

エアフルト大聖堂の他に、エアフルト教区で公式に大聖堂(Dom)という名称を持つ唯一の教会です。ノルトハウゼン大聖堂は、司教座の大聖堂(Kathedral)ではなく、世俗化するまでは財団教会(Stiftkrche)でした。イエス・キリストの十字架の破片である十字架の遺物が保管されていることから、「Zum Heiligen Kreuz」と名付けられました。宗教改革以降、この大聖堂はノルトハウゼンの町で唯一のカトリック教会となっています。

★★ノルトハウゼン Nordhausen -8- に続きます

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