- 2022-11-6
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さてゲーラの章の最終回です。町の雰囲気をとらえている動画をいくつか YouTubeから拾ってご紹介しようと思いますが、その前に10年来気になっていたことを調べておきます。この町に初めて来たのは 2012年なのですが、その時に町の称号として「Dtto-Dix-Sradt」というのを見たのです。旧東独時代にも「Luther-Stadt Eisenah」とか「Luther-Stadt Wittenberg」というのはありましたが・・・Otto Dixって、誰や?(笑)
独語 Wikipediaの Geraの項には「第二次世界大戦中の 1944年 5月から 1945年 4月にかけて、ゲラは空襲で一部破壊された。ドイツ民主共和国建国後、1952年に新たに創設されたゲラ県の県庁所在地となった。1990年からは、行政的には再びテューリンゲン州に属し、この州の 3つの地域センターのうちの 1つとなっている。市内にはゲラ・アイゼナッハ協同州立大学(2016年まではゲラ協同教育大学)と私立 SRH健康大学があり、2007年には連邦園芸博覧会の会場となった。 2017年1月からは正式に「大学都市」の称号を持ち、オットー・ディックスの町(Otto-Dix-Stadt)としても知られている。」・・・上の写真は 2012年のもので、町のロゴに組み込まれているということは、町のマーケティング戦略の中で「Dtto Dix」を積極的に前面に出してその生誕地として売り込んでいこう・・・ということだったんだろうと思います。
独語 Wikipediaによれば:「ヴィルヘルム・ハインリッヒ・オットー・ディクス(* 1891年12月2日ゲラの現在のウンタームハウス地区、† 1969年7月25日シンゲンアムホーエンツィール)は、20世紀のドイツの画家、グラフィックアーティストである。オットー・ディックスの作品は、多様なスタイルで特徴付けられるが、基本的な芸術的アプローチにおいては、リアリズムにこだわり続けている。彼の絵画で最もよく知られているのは、新客観主義(ベリスム)に起因するものである。」
また日本語 Wikipediaには:「1927年、ドレスデン美術アカデミー教授となるが、1933年、ナチスの政権掌握後、解雇された。また1937年の頽廃芸術展(Entartete Kunst)に多くの作品が展示され、翌1938年には彼の260もの作品が公的コレクションから押収された。
第二次世界大戦中は国民突撃隊に招集され従軍するが終戦間近にフランス軍の捕虜となり、1946年2月に解放された。
解放後はソ連占領下のドレスデンを中心に活動を再開するも、1949年に州立シュトゥットガルト芸術アカデミー(de)の教員として招かれて以降西ドイツに活動の場を移す。1969年、卒中によりジンゲン(en)にて死去。」とあります。
ナチスに迫害された、この町出身の芸術家という位置づけは、戦後の社会主義政権下で数多くの地名・道路名を反ナチスの闘士や社会主義政治家に名前を冠したものに改名したゲーラにとっては大きな重みのあるものだっと想像されます。また、ドイツ統一後もそういう地名を元の戻さず維持しているという政治状況下では、町の再興のマーケティング戦略として「Otto Dixの生誕地」というのをロゴに組み込んで前面に押し出したのでしょう。
ところが、現在のロゴからは「Otto-Dix-Stadt」が消え、代わりに弟系ロイス家の家紋(市の紋章もそれを採用している)に置き換わっています。想像ですが、東西統一後も社会主義に由来する人物名を冠した地名を残したということは、ずっと左翼系政党が強かったが最近になってその流れが変わってきている・・・2019年の市議会議員の構成は、極右政党の AfD(Altanative fur Deutschland)が躍進して第一党となり、かつての SED(旧東独の支配政党)の後継政党 PDSを含む LINKE(「左」)が第二党に転落している・・・そんな政治背景と関係があるのでしょうか?
生家は Otto-Dix-Hausとして、1991年(東西ドイツ統一の翌年)に生誕100年を記念してリノベーションされ博物館になっています。Küchengartenから Oeterstein城跡に行く道筋の Mohrenplatz 4にあります。
【Stadtrundgang durch Gera (2021) 17分弱】
【ドローンによる空撮 5分強】
★★★ゲーラ Gera の章を終わります
シリーズ:誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte に戻ります。