「演繹革命」を読んでの論考 by 有吉章氏

私の駒場時代のもう一人の同級生である有吉章さんが、校條浩さんの「演繹革命」に対しての書評・・・というか、それに触発されて書いた論考を同級生のメーリングリストに投稿しました。その内容が非常に秀逸なので(ご本人の許可を頂いて)ここにご紹介します。有吉さんに関する Wikipediaを引用しておきます。

1976年東京大学工学部卒業、大蔵省入省(主計局調査課)。オックスフォード大学大学院経済学研究科留学を経て、1981年から財政金融研究室研究官。財務総合政策研究所次長、国際通貨基金アジア太平洋地域事務所長、一橋大学大学院経済学研究科教授、国際大学大学院国際関係学研究科特任教授、だいこう証券ビジネス取締役を歴任。2023年、瑞宝中綬章受章。

校條さん、有吉です。
興味深く読ませて頂きました。やや飛ばし読み気味ですが・・・

演繹思考対帰納思考という説得的な切り口で、色々考えさせることが多い本です。以下、だいぶ時間が経ってしまいましたが、校條さんが同窓会には参加できないということで、駄文をお送りします。

40年前にはじめて IMFに勤務したときに英語の native speaker以外は英語の書き方教室を受けさせられました。その際の先生が最初に言ったのは、英語は他の言語と文章構成が違うので、英語での文章構成を覚える必要があるということでした。彼女曰く、(まず三角形を描いて)、英語は deductiveに書く。それは演繹的な思考法に沿ったものであり、結論や hypothesisをまず提示して、それから論拠を展開する。また、各パラグラフでも最初のセンテンスでそのパラグラフの中心的なアイデアを提示する。

それに対し、日本語は(と逆三角形を描いて)inductiveな言語で、まずは論拠となる事象を提示して結論に誘導する。

他の言語のスタイルも色々あり、例えばラテン系の仏語などは(と言って下図のような絵を描いて)
  ____________
        ____________
             ___________
                   ___________

前の文章とオーバラップさせつつ展開していく。

そして(と渦巻き状の線を描いて)ロシア語(だったかな)では周辺の本論と遠い雑多な周辺から記述してだんだん中心的な結論に到達する。(日本ではオバさんの会話がこうですかね。なかなか結論に到達しないですが(笑))

日本語でも演繹的な書き方は出来ますので言語特性が直ちに思考法を規定することはないと思いますが何がしかの影響はあるかも知れません。

実際 IMFから大蔵省に戻って最初に書いた局議ペーパー(方針を局長が主催する会議で議論するためのペーパー)をちょっとIMF流に寄せて書いたら、局長から「君の考えを聞きたいわけではない」とおこられました。私もそうだな、と思い、役所流の 背景→問題の所在→経緯→対応案とメリデメ→結論と対処方針 というスタイルに戻しました。専門家エコノミストの集まりである IMFと地頭の良い素人の集まりである大蔵省の違いもあるのですが、日本人は演繹的、論理的に導き出されてた結論はいまひとつ腹落ちせず、経験に基づく判断を信用する傾向があるように思います。しかしこれではなかなか革新的なアイデアは受け入れられないですね。

校條さんのフラストレーションはよく分かりますが、個人レベルで思考形態を変えるというのはなかなか困難では無いかと思います。私も学生に学而不思則罔だよと言ってますが、なかなか上手くいきません。(Elon Mukskは思而不学則危の典型ですが、はまれば大成功ですね。)でも、校條さんも書かれているように、日本に決してそうした思考をする人がいない訳ではなく、校條さんを含め東大の学生には結構いた気がします。少数派かもしれないそういう人をどう活用するか(放し飼いにするか)、が大事ではないかと思います。

日経の私の履歴書や昔の NHKのプロジェクト Xを見ると会社に反対されたのを隠れて進めた(で太っ腹な上司が黙認した)というのが結構多くて、自慢話やストーリーをおもしろくするということで誇張されているきらいはありますが昔はもうちょっと自由があった気がします。たまたま成功したら妨害していた連中が成果を横取りし、しかも実際にイノベーティブな仕事をやった人間を左遷したり、とかいうのもよくあるパターンではありますが。

勝手な妄想ですが、ここ数十年で日本はコンプラが幅をきかせ、寛容度が下がってきたのがブレイクスルーがない理由の一つではないかと思ってます。ガバナンスとかコンプライアンスの名のもとで、勝手なことは許されず、トップ経営層が演繹的思考の持ち主でないとイノベーションが難しい。しかし日本的組織ではそういう人は経営層に引き上げられない…。社会全体としても、東大生が噴水に洗剤をまいても昔なら「全くしょうがないな」と笑って見逃されたのが今や翌日のモニーニングショウで幼稚でバカな東大生とバッシングを浴びるのが必至でしょう 

昔のプロジェクトXは「やらせ」や話を盛って「美談」に仕上げたのが問題視されて終了となったという話もありますが、会社の指示に反して目的を貫いたおかげで画期的な成果を上げたというストーリーが魅力を持っていた最後の時代でもあったのかもしれません。再開した新プロジェクト Xは全社あげて頑張ったというお話が基本のようです。

あまり校條さんの本に対する直接的な感想にはなってませんが、触発されて思ったことを 2、3書きました。お時間をとって失礼。

有吉

PS 公務員も現場の執行では行政の継続性と一貫性が求められるので、帰納的にやらないと不公平、混乱がおきますが、演繹的思考で制度自体を変える法改正を行うことが求められますし、時には法的にグレーなエリアの胆力も必要です。

註:渋谷ハチ公前にあった噴水に洗剤をまいて泡だらけにしたのは大野&一緒に留年することになった同級生達です(笑)翌日はいっしょにバカをやった同級生達と駒場寮で謹慎していましたが、都庁の公園管理課というところから連絡があり「今回は見逃します。次回やったら渋谷署に通報して逮捕してもらいます」・・・時効です、許して(笑)。いい時代だったなあ(笑)

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