誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(54):★★ツェアプスト Zerbst / Anhalt -6-

★★ツェアプスト Zerbst / Anhalt -5- からの続きです

さていよいよお城に行ってみます。戦災で破壊されたことは知っていましたが、ここまで残念な姿になっていたとは・・・涙です。一部は修復が始まっていますが、今残っているのは本来の姿の3分の1だけで、全体を再建するのは無理なんだろうなあ・・・と残念に思います。

航空写真を見ると、本来は「コの字」型の建築物だったところ、残っているのは東側の翼の部分だけであることが判ります。戦前の姿は下の画像です。お城の西側に見えている建物は残っていますが、背後にある廟は破壊されて残っていません。

独語 Wikipediaには「ザクセン=アンハルト州ツェルブスト市にあるツェルブスト城は、アンハルト=ツェルブスト侯爵家の居城であった。第二次世界大戦で大きな被害を受け、その後、大部分が取り壊された。2005年からは、ツェルブスト城開発協会が、この重要なバロック建築の断片が残る東棟の修復に取り組んでいる」・・・とあります。全文を DeepL翻訳しておきますが、長くなるので一部は折りたたんであります。関心のある方はクリックして展開ください。

✙✙ 長くなるので折りたたんでいます。展開するにはこちらをクリック下さい

最初の城郭群

ツェルブスト城は、12世紀に建てられたスラブ系の環濠城が基になっている。アスカニア家のブランデンブルク侯爵のアルブレヒト1世は、スラブ人の堀城の代わりに新しい城を建設させた。1196年の文献に初めて登場するこの城は、外城と本城からなり、周囲を堀と城壁で囲まれていた。その東側には、1215年に献堂された聖バルテロメイ教会を中心とする城下町が築かれた。現在も残っている鐘楼(太っちょ塔)は、この要塞に由来するものである。

アスカニア家のブランデンブルク辺境伯は、バルビーの領主に城と町とその周辺を贈与した。1307年、アンハルト家のアルブレヒト1世がこの領地を手に入れた。こうして、城と町はアンハルト・アスカニア家の支配下に入り、ケーテン城を本城とした。ジギスムント1世は1396年までケーテンで兄弟と共同統治し、その後遺産分割の結果、デッサウとツェルブストの領主となったが、デッサウに居住していた。1544年になってさらに遺産分割が行われ、曾孫のヨハン 4世になって初めてアンハルト・ツェルブストを独立した侯国としたのである。

その後、城は絶えず改築・増築され、16世紀には一族の各分家が個別に住む Garnerbenburgとして発展していった。同じツェルブスト侯国のエルベ川沿いのロスラウ城も、一族の権力の手にあった。1603年以降、当時の城はほとんど老朽化していたため、建物の一部を改築し、大規模な修繕を行う必要があった。1618年、高い天守閣は取り壊された。城は三十年戦争でも破壊されることなく残ったが、建物の維持管理がおろそかになったため、17世紀後半にはほとんど人が住めない状態になってしまった。

アンハルト・ツェルブスト家の邸宅

カール・ヴィルヘルム侯爵は、現代的な新しい住居を建てることを決め、オランダ人のコルネリス・リクワルトにその仕事を依頼した。そのため、まず旧宮殿の北側を解体し、残った材料で土台を作り、南側の建物の一部を新宮殿に組み込んだ。オランダを手本にした典型的なバロック様式の、3つの翼を持つ中庭のある複合建築が計画された。1681年5月31日、礎石を据えた。コルプス・ド・ロジの外壁は 1689年に完成し、装飾と拡張工事は 1696年まで続けられた。宮殿の本館落成式は 1696年6月23日に行われ、当時の建築費用は 57,000ターラーと見積もられていた。

1703年から 1706年にかけて、リクヴァートの後継者ジョヴァンニ・シモネッティの指揮で西棟が建設され、宮殿の礼拝堂などが置かれることになった。礼拝堂の増築工事は 1719年まで続けられることになった。1721年からは、ロジ隊の中央のリサリットが拡張され、バロック様式のボンネットを持つ宮殿の塔となった。1743年、旧城の遺構はついに取り壊され、代わりに 1744年から 1747年にかけて、ゲオルク・ヴェンツェスラウス・フォン・クノーベルスドルフの設計によりヨハン・フリードリヒ・フリーデルが東棟を建設した。新館の内装は、フリデリーロココ様式が採用された。特に、クノーベルスドルフが設計したとされる、錬鉄製のロココ調の手すりが付いた東棟の多段階段は見事であった。

フリードリッヒ・アウグスト侯がフリードリッヒ大王との争いでバーゼルに亡命せざるを得なくなり、1758年に建設が中止された。この時、宮殿の外観が完成し、東棟の 2階だけが未整備のまま、この部屋に宮殿美術館が設立されることになった。1750年以降、ヨハンナ・エリザベートは、皇族や王族を迎えるのにふさわしいバロック様式の住居を持つため、フリードリッヒ・アウグストの妻で、ロシアの女帝となったかたーりなの母の フリードリッヒ・アウグストは、自分の住居として新たにドーンブルク宮殿を建設させた(ただし、娘のカトリーナ女帝や弟のアドルフ・フリードリヒ王は来訪することはなかった)。

ツェルブスト城は、後継者がいなくなった後、ほとんど何もない状態になっていた。1872年、公爵家と公国の文書館が Corps de Logisに設立された。1881年、塔は焼失したが、その後、元の姿に復元された。1921年、城の博物館が開設され、ツェルブスト税務署などいくつかの市役所が空いた部屋に移り住むことになった。

1945年 4月 16日、城は爆撃を受け、完全に焼失した。貴重な保存されていた内部の調度品も、博物館の展示品も、国家公文書館の書類も破壊されたのである。基礎壁が残る城の再建は可能だったが、政治的な判断で却下されたため、Corps de Logisと西棟は爆破され、東棟の跡と Corps de Logisの一部が残るのみであった。

城内には、かつての屋敷の姿や規模を偲ばせるものが残されている。宮殿のすぐ隣には、1724年に建てられたバロック様式の建物で、かつては屋根付きのトーナメント競技場として使用され、現在は市庁舎がある。また、城の公園の一部や、いくつかの外構も保存されている。かつてバロック庭園として整備されていたこの公園は、1798年頃に景観公園として生まれ変わった。これは、バロック様式の古いブロデリーや芝生が長い間放置され、以前の構造がわからなくなっていたため、実用的な理由でもあったのです。

保護と復興

2005年からは、ツェルブスト宮殿協会がその確保と再建に着手している。目的は、城の東棟の外観を忠実に復元すること。2016年9月、そのための新たな全体構想が示された。東棟の復元は、城の地下室で実施されることになった。東棟の地下室では、2021年に考古学者によって戦争末期の食器や台所用品の一部、生ごみ(カキの殻まで)が発見された。

Wikipediaにもあったように、爆撃で破壊されたとはいえ、基礎壁の部分は残っていたので全体の修復は可能だったところ、旧東独政府の政治的判断で中央と西翼は完全に撤去されてしまったようです。旧東独ではこういう事例は数多くあり、有名なのはベルリンにあった旧王宮を 1950年に爆破解体し、その跡地に東独の国会議事堂に相当する Palast der Repblik(共和国宮殿)を建てたことでしょう。こちらは東西統一後にアスベストが多用されていたことが判り閉鎖されていましたが、ここでそれを解体し元の姿に再建されました。まあ、首都ベルリンの威信にかけて再建したという側面はあり、ツェルプストの城全体が再建される見込みや動機は無いようです。残念・・・

なおこちらに様々な事情で破壊され、修復・再建されなかった城のリストがあります。破壊された年度から、旧東独地域には戦時中あるいは戦後に政治的な理由で破壊されたものが多いことが見て取れます。

★★ツェアプスト Zerbst / Anhalt – 7 – に続きます

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