- 2021-10-26
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さて、満を持してシュヴェリーン城を訪問します。1990年、東西統一後すぐのタイミングで訪問して以来、何度か訪問しているのですが、その度にリノベーションが進んでいきます。統一直後には外壁はくすんだ色でしたが、今は綺麗に磨かれて、北のノイシュヴァンシュタイン城と称されるほどに見違えるようになっています。メクレンブルク家の歴史なども調べながら解説を試みようと思います。
メクレンブルク家(Haus Mecklenburg)については第二回目に書きましたのでご参照ください。またこちらの日本語 Wikipediaもよく纏まっています。
この家系は大きな分割を3回行っていますが、上左は1回目の分割後、上右は 1701年に「ハンブルク協定(Hamburger Vergleich)」で取り決められた3回目の分割後の地図です。今回のテーマのシェヴェリーン城は、メクレンブルク家のメインの居館として最も壮麗で規模も大きいものですが、分家・分割や併合を繰り返したことも有り、メクレンブルクの広範囲に居館が残されています。
メクレンブルク・シュヴェリーン家の居館
メクレンブルク・シュトレーリッツ家の居館
メクレンブルク家や公国・大公国の歴史は深掘りすると興味は尽きません。
1701年にメクレンブルク・シュヴェリーン公国(Herzogtum)とメクレンブルク・シュトレーリッツ公国のふたつに集約されますが、当時の神聖ローマ帝国を構成する領邦国家としては「(Teil-)Herzogtum」として、個別には完全な主権は与えられていなかったようで、ふたつを併せて「Gesamtherzogtum」とされていました。ちょっと専門的になりますが、ドイツの会社法で、会社の代表権を持つ人のことを Prokuristと呼びますが、複数の Prokuristが集まって初めて代表権が生じる場合は Gesamtprokuristと呼ぶのに似ている概念です。
この 1701年の「ハンブルク協定」と、その後 1755年に成立した「Landesgrundgesetzlicher Erbvergleich (LGGEV) 土地法による相続協定」は、メクレンブルグにおける公爵家と地方領主・豪族との関係に置いて公爵家の地位の弱体化を招き、1918年の帝政崩壊時にはドイツで最も遅れた地域として認識される原因となっていたとのことです。
1815年、ナポレオン戦争の戦後処理を行ったウィーン会議では「公国 Herzogtum」から「大公国 Großherzogtum」に格上げされますが、この時も個別にはフルの主権が与えられてはいません。ここから発展して「公国 Herzogtum」ってそもそもなんじゃ?と更に独語 Wikipediaを深掘りするといろんなことが見えてきます。
1918年 2月 24日、メクレンブルク・シュトレーリッツ大公アドルフ・フリードリヒ 6世が未婚で子供がいないまま謎の死を遂げ(unter rätselhaften Umständen starb 自殺(Freitod)だったらしい)、両家の継承権条約に基づきシュヴェリン大公フリードリヒ・フランツ 4世がシュトレーリッツの実権も掌握・継承しますが、同年 11月 14日には第一次世界大戦の終結と共に十一月革命の流れの中で最終的に退位することになります。
その後は二つの大公国ともドイツ帝国を構成する「自由州 Freistaat」となり各々が政治的に独立を果たします。シュトレーリッツ自由州は連邦国家であった「ドイツ帝国(Deutsches Reich)を構成する国 Land」の扱いであり、憲法(Verfassung)を持ちますが、所謂ワイマール共和政となって初めて採択された構成諸国の憲法の中で、最初に採択された民主的な憲法として知られており、その場所であるシュトレーリッツ城もそれによって政治的に有名になりました。残念ながら第二次世界大戦で破壊され残ってはいません。
註:「第一次世界大戦終結でドイツ皇帝ヴィルヘルム 2世が退位して「ワイマール共和国」となった」・・・というのはミスリーディングな表現で、国家としてはドイツ帝国(Deutsches Reich)は継続しており、その政体が帝政から共和政となったということです。日本語では Reichを帝国と訳すのが通例ですが、それがちょっとくせ者かもですね。社会主義の旧東独が引き継いだ戦前からの鉄道網も Reichsbahn・・・これを帝国鉄道と訳すと妙なことになります。旧西独では Bundesbahn(連邦鉄道)と妥当な名称に改称されましたが、初めて西ベルリンに行くための旧東独の領土の上を鉄道で通過した際に「何故『ライヒスバーン 帝国鉄道』って名前が社会主義国家に残っているんだ?」と頭が混乱した記憶があります。
因みに 1926年にはシュトレーリッツ自由州がシュヴェリーン自由州に対して、かつての所領や修道院の財産を巡って帝国裁判所に裁判を起こしたりしています。このあたり、最近のテレビニュースで、元婚約者から借金した・しないなどという痴話喧嘩より余程オモシロいです(笑)
なお、皇室の女性・女系が話題となっていますが、ドイツでは男系相続が基本であり、シュヴェリーン家の方は 2001年に途絶えましたが、シュトレーリッツ家の方は現在も続いています。
「メクレンブルク=シュヴェリン家は、2001年に最後の世襲大公である Friedrich Franz Herzog zu Mecklenburgが子供を持たずに亡くなったことにより、男系は途絶しました。一方、メクレンブルク=シュトレリッツ家の血筋は、今でも男性の血筋として残っています。最後の男性の当主は、メクレンブルク=シュトレリッツ家の Borwin(※1956年 右の写真)と、その 2人の息子である Georg Alexander(※1991年)と Carl Michael (※1994年)です。」(独語 Wikipedia) 私や私の子供たちとほぼ同年代ですね・・・ウチの家系図は西暦900年代のご先祖様にまでは遡れませんが(笑)
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「シュヴェリーン城は、何世紀にもわたってメクレンブルクの公爵や大公の住居として使用され、現在はメクレンブルク・フォアポンメルン州議会の議事堂となっています。シュヴェリンの中心部にある城島にあり、メクレンブルク・フォアポンメルン州にある 2,000以上の城や荘園の中で最もよく知られ、最も壮麗な建物であり、ヨーロッパにおけるロマンティック歴史主義の最も重要な例の一つとされています。ギュストロー、ルートヴィヒスルスト、ノイシュトレーリッツの旧公爵邸とともに、メクレンブルクの主要な邸宅のひとつです。
城は千年の過程を経て歴史的に成長してきた建物です。そのリング状の形状は、941/42年かそれ以降に、シュヴェリン湖畔の小島に建てられたスラブ人の城の城壁にまで遡ることができます。何世紀にもわたって、この建物群がどのように変化してきたかは、1500年頃からの豊富な書物や絵画の証拠によって包括的に記録されています。
現在の宮殿は、1845年から 1857年にかけて、4人の重要な建築家の計画に基づいて、旧宮殿を大幅に改築・再建して作られました。ゲオルク・アドルフ・デムラー、ゴットフリート・ゼンパー、フリードリヒ・アウグスト・シュトゥラー、エルンスト・フリードリヒ・ズウィナー。フランスのルネッサンス期の城は、ネオ・ルネッサンス期の建築のモデルとなりました。例えば、ロワール地方のシャンボール城をイメージしたディテールが随所に見られます。しかし、ヨハン・アルブレヒト様式のようなメクレンブルク地方のモチーフも大きな役割を果たしました。
シュヴェリーン城は、そのロマンチックな外観と訪れる人を魅了する効果から、「北のノイシュヴァンシュタイン」、「シンデレラ城」、「おとぎ話の城」とも呼ばれています。シュヴェリン・レジデンス・アンサンブル(ロマンティック歴史主義の文化的景観)の一部として、ドイツのユネスコ世界遺産候補となっています。」(独語 Wikipediaからの DeepL翻訳)