誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(16):★★ミュールハウゼン Mühlhausen -1-

またテューリンゲンに戻り、ミュールハウゼン Mühlhausenをご紹介します。Mühlhausenとは「水車小屋(のある地)」という意味で、まあどこにでもありそうな地名です。実際、他にも Stuttgartと Augsburgの近所にもあり、またアルザスの Mulhouse(ミュルーズ)もドイツ名は Mülhausenです。それと区別するために 1991年に市議会で Mühlhausen/Thüringenを正式名称とすることに決定しました。まあ「武蔵小金井」とか「摂津本山」みたいなもんでしょう(笑)。

バッハが居たことがあり、また旧東独では聖人的扱いの「トマス・ミュンツァー Thomas Müntzer」が活動の拠点としたことで、1975年~1991年までは Mühlhausen Thomas-Müntzer-Stadtという称号付きの町だったこともあるので、非知名度は★★としておきます。 

View from Rabenturm in Mühlhausen.jpgCC BY-SA 3.0, Link

Wappen Lage Data

右の画像は旧東独の 5マルク紙幣で、入国時に強制両替(Zwangsumtausch)といって、西独の 25DMを「等価で」東独の 25Mに交換する際に、ゲーテが描かれた 20Mと共に渡されるものです。25DM(西マルク)は当時のレートで円換算すると 2,500円くらいとなり「まあ、テーマパークの入場料と思えばこんなもんかな」と割り切っていました。しかし実際には東ベルリンでこの 25東マルクを使い切るのはかなり大変=物価が安くて使いきれないというのが実態でした。
ここで本題は、その 5マルク紙幣に描かれているのが「トマス・ミュンツァー Thomas Müntzer」という人物だということです。まあ数人しか選ばれない紙幣の肖像画ですから、聖人的ポジションと言えるでしょう。ちなみに 100M紙幣の肖像はカール・マルクスです。(旧東独紙幣の全貌はこちら)

トマス・ミュンツァー(Thomas Müntzer 1489-1525)は、マルティン・ルター(1483-1546)とほぼ同時代の人で、ルターに共鳴し宗教改革運動に加わりますが、(ミュンツァーと比較して)穏健・保守的なルターとは袂を分かち、封建領主の収奪に怒りを募らせていた農民の一揆に加勢し「ドイツ農民戦争」を主導することになります。世界史の窓によれば「1524年夏、南ドイツから始まり、ほぼ全ドイツに波及した大農民反乱。指導者のトマス=ミュンツァーは、南ザクセンの教会説教師で、ルター宗教改革を支持し、自らも教会の腐敗を批判していた。教会批判にとどまらず、封建領主による収奪が強まって苦しんでいる農民の救済をめざし、農奴制の廃止、封建地代の軽減、裁判の公正など、「農民の12箇条」をかかげ、領主や教会など封建諸侯と戦った。おりから封建諸侯は、カール5世のフランス王フランソワ1世との戦争でイタリアに出征していたので、農民軍は至る所で勝利したが、翌年諸侯軍がドイツに戻り反撃に転じることによって鎮圧された。諸侯による懲罰は過酷をきわめ、約十万の農民が命を亡くしたという。」という記述があります。

この「封建領主の収奪に対する農民の戦い」というのが「労働者と農民の国家 Arbeiter-und-Bauern-Staat」を標榜する東独の階級闘争のイデオロギーにマッチし、紙幣に描かれるような聖人的なポジションを獲得したわけです。旧東独の軍隊「国家人民軍 NVA:Nationale Volksarmee」は、この農民戦争に於ける農民軍の継承者と定義されていたくらいです。

トマス・ミュンツァーの詳細は ✙ をクリック下さい

生涯

ハルツ山地のシュトルベルク村 (Stolberg) に生まれる。1506年ライプツィヒフランクフルト・アム・マインで神学を研究し、1519年マルティン・ルターと知り合い信奉者となる。ルターの推薦でツヴィッカウの説教者となり、そこでアナバプテストの労働者と接触し、その後行動をともにするようになる。ヨハネス・タウラーJohannes Tauler)やエレミヤ書に関するフィオーレのヨアキムの注釈などの神秘主義思想家の著作を研究し、聖職者と金持ちを攻撃し天国の到来を説き、財産の共有を基礎にした社会秩序の改革を訴えたために、ツヴィッカウを追放されプラハノルトハウゼンをへてアルシュテットAllstedt)に落ち着き、共産主義生活の集落をつくり、説教活動の中心地とした。彼の説教は農業や林業で暮らす労働者に強い反響を呼び、ミュンツァーは次第に、下層階級の要求を弾圧し、諸侯に妥協しているルターの姿勢を批判するようになる。ルターの側もミュンツァーを〈アルシュテットの悪魔〉と呼びつらい、ザクセンの諸侯を煽動したが、諸侯はミュンツァーの影響力をはばかり、あえて暴力的方策がとれなかったという。

1524年、西南ドイツに波及した農民一揆に呼応して、ミュンツァーは支持者たちに民衆を圧迫する暴力を倒壊しつつある、世界の変化が近づいていると告げた。テューリンゲン地方のミュールハウゼンドイツ語版英語版市に行き、その地の民主主義者ハインリッヒ・プファイファー(Heinrich Pfeiffer)と結んで秘密結社をつくり、新政府の樹立をはかったが、ルターの書簡が市におくられて彼ら2人は説教を禁じられた。ルターに対する公開討論を望んでニュルンベルクへ赴き、その後ドイツとスイスの国境でドイツ農民戦争の最初の兆しを目撃した。南ドイツに滞在して旧約聖書に基づいた農業改革について説教し、反乱はもはや猶予されるべきでないとの信念を固めた。テューリンゲンマンスフェルトMansfeld)で革命を組織するためにミュールハウゼンに戻るが、ザクセン・ブラウンシュヴァイクヘッセン諸侯の連合軍に敗れ(フランケンハウゼンの戦いドイツ語版英語版)、捕らわれてプファイファーとともに斬首された。

人柄

ミュンツァーは宗教改革の最左翼、ルターの穏健派に対し過激派を代表した神学者である。聖書研究にとどまらず、聖書の言葉を階級闘争に翻訳し、農民大衆を理想社会建設へ導こうとした。彼は体躯矮小にして、顔は浅黒く、髪は黒く、眼は炎のごとく、弁舌は粗野で民衆的かつ熱烈、内的衝動にしたがって行動し、組織の人というよりは独立不羈・傍若無人の人柄といわれる。

★★ミュールハウゼン -2- に続きます

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