- 2026-10-1
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まず大きく俯瞰してみましょう。旧市街は右手の方の太い道路で囲まれた中にあります。ちょっと見づらいですが右下にあるスケールが 200mなので、かつては城壁があったと思われる旧市街の丸い囲いの直径は 800m程度というところでしょう。
それと比べて左手に広がる鉄道施設のなんと巨大なこと!俗にいう鉄道交通の要衝だったことが理解できます。ちなみに駅は前項で触れましたが「線路が二方向へ開く Keilbahnhof(くさび形の駅)」という通り、左手から来た線路群が南北に「股裂き」状に開く真ん中にくさびのように存在しています。
さてこういう交通の要衝は戦争になるとそこを破壊すると交通が広範囲にマヒするので爆撃のターゲットになりやすいものですが、実際はどうだったのでしょう?AIに訊いてみます。Zwickauはどの程度の戦災を被ったのでしょうか?
第二次世界大戦において、ツヴィッカウ(Zwickau)が被った戦災はドイツの他の主要都市に比べると比較的軽微であり、都市全体の破壊率は約 5%にとどまりました。周辺のドレスデン(85%破壊) やケムニッツ(41%破壊) のような壊滅的な被害は免れています。しかし、まったく無傷だったわけではなく、終戦までに計10回の空襲を受けています。
最も激しかった「1945年3月19日」の空襲:ツヴィッカウの歴史上、最大の被害を出したのが1945年3月19日の空襲です。
• 被害規模: アメリカ軍の爆撃機414機による空爆を受け、414人が死亡、209人が負傷しました。
• 被災エリア: 爆弾の一部は市街地の手前の畑(現在のノイプラニッツ地区など)に早く落ちてしまったものの、中心部のマルクト広場(Hauptmarkt)やコーンマルクト(Kornmarkt)、レギールングスプラッツ(Regierungsplatz)などに直撃しました。
• 失われた建築: この空襲によって、歴史ある宿主「パラディース(Gasthof zum Paradies)」や、市庁舎の建物の一部(Stadthaus 3)などが破壊され、これらは戦後も再建されなかったため、街並みに一部傷跡を残すこととなりました。
軽微にとどまった理由
ツヴィッカウには自動車工場(ホルヒやアウディなど)や航空機修理工場といった軍事上重要な拠点が存在したため、連合軍のターゲットリストには入っていました。しかし、悪天候や視界不良によって爆撃隊が直前で引き返したり、主目標(ケムニッツなど)の天候が悪かった際の「最終選択ターゲット(予備の目標)」として扱われたケースが多く、大規模な絨毯爆撃(じゅうたんばくげき)の主目標になることを免れました。
結果として、中世の面影を残す美しい旧市街の建物の多くが戦後も残り、ドレスデンなどのように都市のアイデンティティが完全に消失するような悲劇は避けられました。
ラッキーでしたね!
歩いたのは座標でいえば左下の「第三象限」あたりだったわけですね。やっぱりもう少し事前のスタディをした方がよかったかな・・・
しかし・・・こうやって航空写真を見てみると、なにか違和感があるぞ!そう思いませんか?
この町って戦災は軽微だった(都市全体の破壊率は約 5%)とのことでしたね?でも歩かなかった第一象限やその他の大部分にはコンクリート製の集合住宅っぽいものが立ち並んでいるように見えます。破壊されなければ赤い瓦屋根がもっと多くていいはず・・・はて?「爆撃被災都市不動産鑑定士」の私には大いに違和感があります。たとえばこの記事やこの記事をお読みください。何を言っているのかが分かるでしょう。
Zwickauは大きな戦災を受けず都市部の破壊率は5%で済んだとお教えいただきましたが、この航空写真をみると右上を中心に古い家並みではなく戦後建てられたような中層の集合住宅が並んでいるように見えます。こういう町づくりは旧東独の戦災・爆撃で破壊された町にありがちです。なぜ5%しか破壊されなかった町がこんな感じになるのでしょう?
Zwickau(ツヴィッカウ)の破壊率が5%に留まったにもかかわらず、航空写真の右上(主にニコライ通りや旧ニコライ地区の周辺)に中層の近代的な集合住宅が並んでいる理由は、東ドイツ(DDR)時代に行われた「社会主義的都市改造」によって歴史的な古い街並みが意図的に解体されたためです。
空襲による破壊を免れた町がこのような景観になった背景には、旧東独特有の以下の事情がありました。
1. 「老朽化による解体」と社会主義のイデオロギー
東ドイツ政府は、第二次世界大戦の爆撃による破壊だけでなく、戦前の古い建物(特に19世紀後半の Gründerzeit(ヴィルヘルム時代)やそれ以前の炭鉱労働者向けの古い小住宅など)を「資本主義や過去の遺物」、あるいは「劣悪で非衛生的な住環境」とみなしていました。
戦後、これらの古い木造や石造りの建物は十分なメンテナンスを施されず、意図的に放置されて老朽化(修復不可能なレベルまで崩壊)が進められました。そして、「古く暗い街並みを一掃し、明るく機能的な労働者のための近代都市を作る」という大義名分のもと、戦災に遭わなかったエリアでも一斉に歴史的景観が取り壊されたのです。
2. ニコライ地区(Nikolaiviertel)の取り壊し
特に写真右上のエリアにあたる「ニコライ地区」周辺は、かつてツヴィッカウが鉱山都市として栄えた時代の1〜2階建ての古い家並みが残る歴史ある場所でした。
しかし東ドイツ後期に、これらがまとめて取り壊され、代わりに「Plattenbau(プラッテンバウ)」と呼ばれるプレハブ工法の中高層パネル団地が建設されました。このとき、古い道路の区画も無視され、敷地を広く使って四角いブロック状にアパートを並べたため、周囲の入り組んだ旧市街(画像左側や中央)の街並みとは対照的な、現代的なグリッド・空間配置の都市景観が生まれました。
3. 社会主義都市計画のモデル
東ドイツの都市計画グループにとって、これらは「社会主義的ライフスタイルの実践」でした。爆撃で平地にならなかった町であっても、中央広場(マルクト)の周辺や中心部の一部(ドームや大聖堂などシンボル的な建物)だけを保護し、そのすぐ隣の居住区は大胆にスクラップ・アンド・ビルドを行って、中央集権的で効率的な都市へと再プロファイリングしていくのが当時の標準的な手法だったのです。
このように、ツヴィッカウの現在の姿は「戦争による破壊」ではなく、「戦後の政治的・都市計画的な意図による破壊と再開発」の結果を色濃く反映しています。
この東ドイツ時代に建てられた右上の集合住宅(プラッテンバウ)ですが、統一後は人口減少に伴って「減築(上の階を削る)」や「モダンなリノベーション」といった現代特有の都市計画(Stadtumbau Ost)が進められています。
Zwickauは大きな戦災を受けず都市部の破壊率は5%で済んだとお教えいただきましたが、この航空写真をみると右上を中心に古い家並みではなく戦後建てられたような中層の集合住宅が並んでいるように見えます。こういう町づくりは旧東独の戦災・爆撃で破壊された町にありがちです。なぜ5%しか破壊されなかった町がこんな感じになるのでしょう?
大野さんの疑問はもっともです。写真右側の集合住宅群は、主として空襲跡の復興ではなく、戦後まで残っていた旧市街をDDR時代に大規模に取り壊して建て直した結果です。 前回の私の説明は、「戦災が比較的少なかった」ことだけを述べ、その後の旧市街の喪失を説明していませんでした。この点は補足・訂正が必要です。
写真は確認できました。ご指摘の右上は、Alter Steinweg(アルター・シュタインヴェーク)とNicolaistraße(ニコライ通り)の周辺、ムルデ川との間に広がる旧市街東部です。ここはまさに、市の資料が「歴史的な西半分」と「プレハブ集合住宅の東半分」という、中心市街地の二つの顔を説明している地区です。
大きな転機は、爆撃よりも1954年の洪水でした。
1954年7月9~10日、ムルデ川の堤防決壊によって歴史的中心部が浸水し、Hauptmarktでは水深が2.10メートルに達しました。市の年表は、これをZwickau史上最悪のムルデ川洪水としています。中央の広場で2メートル以上ですから、川に近い旧市街の被害の深刻さが想像できます。
ただし、洪水直後に一気に住宅団地へ変わったわけではありません。都市計画コンペ「Europan」のZwickau向け資料には、東部の小規模な歴史的建物が洪水で傷み、その後も多くが修復されずに荒廃したとあります。そこへ鉱山採掘による建物被害と、維持修繕の不足が重なりました。市自身の都市開発計画にも、東部の取り壊しの背景として、この三つが明記されています。
その経過を並べると、こうなります。
時期 旧市街東部で起きたこと
第二次大戦末まで 中心部は大規模な爆撃による壊滅を免れ、まとまった街並みが残った
1954年 大洪水で歴史的建物が被災
その後 修復不足に鉱山被害も重なり、老朽化・荒廃が進行
1971~1976年 東部旧市街を面的に取り壊し
1979年以降 Alter Steinweg地区などで集合住宅への建て替えを進める
取り壊しの期間はEuropan資料、市街地再建の1979年9月28日の起工は市の公式年表で確認できます。つまり、大戦終結から四半世紀以上たって、残っていた旧市街を撤去したのです。
では、なぜ修復ではなく全面的な建て替えを選んだのか。
ここがDDRの都市づくりに関わる核心です。Europan資料は、建物の状態が悪かったことに加え、SEDの方針に沿った「工業化建設」の都市像が、それ以上に大きな役割を果たしたと説明しています。古い敷地割りや家ごとの違いを残して修復するより、規格化した集合住宅へ置き換える方針が優勢だった、ということです。資料は、その結果を「著しいアイデンティティの喪失」と評価しています。
しかも市の計画によると、撤去された地区には15~16世紀にさかのぼる建物群があり、代わりに建てられたのは5~11階建てのPlattenbauでした。大野さんが航空写真で感じられた「細かな古い家並みがなく、大きな集合住宅が並ぶ」という違和感は、この変化を捉えています。
写真でも、中央から左側には小さな屋根が密集し、通りに沿って建物が連続しています。一方、右側では長い住宅棟と広い棟間空間が目立ちます。外観の新しさだけでなく、建物と敷地の単位そのものが変わっているのが読みどころですね。
最後に「5%」についても、説明を慎重にする必要があります。今回確認した二次資料では、これは1952年に示されたZwickauの戦災破壊度とされています。ただし、その記述だけでは、面積・建物数・住宅数のどれを分母にした数字かは確定できません。前回「都市部の破壊率5%」と明確な定義があるように述べたのは不正確でした。少なくとも、「現在も戦前の街並みが95%残る」という意味ではありません。
大野さんが見抜かれた「旧東独の戦災都市に似た景観」は、その通りです。ただZwickauでは、そこへ至る過程に、戦争を生き残った街並みが、洪水・荒廃・DDRの都市改造によって失われたという、もう一つの歴史があるわけです。
よくわかりました
よかったです! 航空写真から「戦災5%という説明だけでは辻褄が合わない」と気づかれたのが、今回の歴史を掘り下げるきっかけでした。
「戦争を生き残った街並みが、その後も残ったとは限らない」――Zwickauを見るうえで大事な点ですね。次に歩かれる際は、Hauptmarktから東へ向かうときの街並みの切り替わりも、違った意味をもって見えると思います。






























