誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(116)★★★ ビュッツォウ Bützow -5-

★★★ ビュッツォウ Bützow -4- からの続きです

Heimatflieger – Bützow

Goldhofers Zeitreise 28 – Eine Geschichte der Stadt Bützow
Die erste „Zeitreise” des neuen Jahres führt in die Kleinstadt Bützow. Nicht nur der dortige Dom ist interessant, sondern sicher auch die Tatsache, dass die Stadt lange Zeit gar nicht zu Mecklenburg gehörte…

さてここで、ずっと疑問に思っていたことを ChatGPTに訊いてみることにしました。

上の城館は Schloss Bützow…かつての司教座(Bistum Bützow)があり司教(Bischof)が拠点としたところです。ここに来る前に行った Güstrowにも Domがありましたね?そう、あの二つに分割されたオルガンがある教会です。たかだか 10km程度しか離れていない2つの町に司教区が2つ存在したのでしょうか?競合しなかったの?また Bützowの司教座は Schwerinから移したとのことです。なぜ?今日の町の大きさはたかだか人口 7,000人くらいの小さな町に、10万人規模の町から司教座を移す?何故?

Güstrowの司教座と Bützowの司教座は被らないのですか?10kmくらいしか離れていませんが?

非常に鋭いところに気づかれました。実は**「GüstrowのDom」と「Bützowの司教座」は別物**で、この点はドイツ人でも誤解することがあるほどです。

結論から言うと、「司教座(Bischofssitz)はBützow」「GüstrowのDomは司教座ではない」でした。両者は約20km弱しか離れていませんが、役割が異なります。

GüstrowのDomは「司教座」ではない:1226年に創建されたGüstrow Domは、名称こそ「Dom(大聖堂)」ですが、実際には司教が常駐したことはありません。これは**「Kollegiatskirche(参事会教会)」**で、聖職者団(Domherren)が所属していたため「Dom」と呼ばれたのです。日本語でいう「司教座聖堂」という意味ではありません。

つまり、「Domという建物」「Domkapitel(参事会)」「Bischof(司教)」この3つが必ずしもセットではないという中世ドイツ特有の事情があります。

なぜBützowに司教がいたのか:もともと司教区はSchwerin司教区でした。ところが1239年、Schwerin司教はBützowへ居住を移します。理由は単純で、Bützowは司教領(Hochstift Schwerin)のほぼ中央にあり、防衛もしやすかったためです。

そのため、「Schwerinにも拠点」「Bützowにも宮殿(Schloss)」「Bützowが実際の居住地」という状態になります。

Güstrowとの距離は問題にならなかった:現在の感覚では「20kmしか離れていないなら一つでいいのでは?」と思います。しかし13世紀では、20kmは馬で半日程度です。しかも「GüstrowはWerle侯の居城」「Bützowは司教の都市」と政治勢力が異なります。むしろ近いからこそ、世俗権力(侯)と教会権力(司教)が適度に距離を置けたとも考えられます。

さらに興味深い点:Güstrow Domの聖職者たちは途中から自らカンミン(Cammin)司教区の管轄に移るというかなり大胆な行動を取っています。都市自体はSchwerin司教区の近くにあるのに、教会組織としてはCammin側へ接近し、その後長く管轄争いの原因になりました。実際に歩いてみると今回大野様がお撮りになった写真を思い返すと、Güstrow Domは「侯国(Werle家・後のメクレンブルク公)の宗教的中心」・Bützowは「Schwerin司教の行政・居住の中心」という違いが町並みにも表れています。

私はむしろ、Bützowの方が「司教都市」らしい落ち着いた雰囲気を今でも残していると感じます。一方でGüstrowは宮殿・市場・Domが一体となった**宮廷都市(Residenzstadt)**の印象が強く、宗教都市というより「君侯の都」という性格が際立っています。

このように、わずか20kmほどの距離に**「公爵の都」と「司教の都」**が並んで存在するのは、中世ドイツの世俗権力と教会権力の並立をよく示す、メクレンブルクならではの興味深い景観と言えるでしょう。

Bützowに常駐した司教はSchloss Bützow にいたのですか?Pfarrkirche ではないのですか?

はい、その理解でほぼ正しいです。司教が「住んでいた」のはSchloss Bützow(司教城館)であり、Pfarrkirche(後のStiftskirche)は「司教座教会・典礼の場」でした。 この2つは機能が分かれていました。整理すると次のようになります。施設 役割
Schloss Bützow 司教の住居・行政・裁判・来客応対などの政治的中心
Stiftskirche(旧Pfarrkirche) ミサ、典礼、参事会(Domkapitel)の活動、宗教的中心・もともとはPfarrkircheだった

1229年には町の教区教会(Pfarrkirche)があり、1239年にSchwerin司教がBützowへ移住します。その後1248年、この教区教会に**Kollegiatsstift(参事会)が設置され、単なる教区教会からStiftskirche(参事会教会)**へと格上げされました。つまり、司教の居住地となったことで教会の地位も高まり、大規模な増改築が行われたのです。

司教の日常は?:想像すると分かりやすいのですが、朝、Schloss Bützowで執務する。必要な時には数百メートル歩いてStiftskircheへ行き、ミサや重要な典礼を執り行う。その後、また城館に戻って行政や裁判、領地経営を行う。という生活だったと考えられます。現在の都市計画でも、SchlossとStiftskircheは非常に近接しており、「司教都市」として一体的に設計されていたことがよく分かります。

面白いのは「司教座」と「Dom」の違い:ここがGüstrowとの最大の違いです。Bützowでは、司教はSchlossに住み、隣接するStiftskircheが司教の宗教活動の中心でした。一方、Güstrow Domは名前こそ「Dom」ですが、司教は住んでおらず、参事会教会として機能していました。

つまり、「Bützowには司教はいるがDomはない(Stiftskirche)」「GüstrowにはDomはあるが司教はいない」という、一見すると逆説的な状況だったわけです。

これは中世ドイツの教会制度の複雑さを示す好例で、実際に両都市を訪れるとその違いが町の雰囲気にも表れています。Bützowは「司教の居城を中心とする宗教都市」、Güstrowは「君侯(メクレンブルク公)の宮廷都市」という性格の違いが、現在の街並みからも感じ取れます。

Bützow は人口7.500人程度で街としては小さいですね。司教座があった都市と言われても俄かにはピンときません。Schwerin は大きいですが何故司教座をBützow に移したのでしょうか?やはり世俗と聖職は距離を置きたかったからですか?

私も最初にBützowを訪れたときは、「こんな小さな町が司教座?」という印象を受けました。しかし、中世の事情を考えると、実はかなり合理的な選択だったことが分かります。結論から言えば、大野様がお考えの「世俗権力と教会権力の距離を置きたかった」という理由は、重要な要因の一つだったと考えられます。ただし、それだけではなく、いくつかの事情が重なっています。

① Bützowは司教領(Hochstift)の中心だった:1239年に司教が移った理由として、史料はまず「司教領(Stiftsland)の中心に位置していた」ことを挙げています。つまり、現代の県庁所在地を選ぶような感覚で、「東西南北へのアクセス」「領地管理」「裁判」「税の徴収」を考えるとBützowが便利だったわけです。

② メクレンブルク侯との距離:こちらは史料に「そのため」と明記されているわけではありませんが、多くの歴史家が背景事情として重視しています。Schwerinは「司教」「メクレンブルク侯」の勢力がぶつかりやすい都市でした。中世ヨーロッパでは、司教は霊的指導者であると同時に、一人の領主でもありました。そのため、世俗君主とは常に微妙な緊張関係にあります。司教は「公爵の城の隣で暮らす」よりも、「自分だけの城と町を持つ」方が政治的に自由だったのです。実際、その後もメクレンブルク侯との対立は何度も起こっており、Bützow城は要塞化され、攻撃を受けることもありました。

③ Bützowは「小さい」ことがむしろ利点:現代人は「司教なら大都市」と考えますが、13世紀では必ずしもそうではありません。例えば「教皇はローマだけでなくアヴィニョンにもいました」「神聖ローマ帝国皇帝は固定した首都を持ちませんでした」「司教も「大都市」より「自分の支配する町」を好みました」。人口7,500人というのは現在の数字ですが、中世の北ドイツでは、数千人規模でも十分に重要都市でした。

④ Schwerinとの関係は切れていない:ここも重要です。実は司教はSchwerinを完全に捨てたわけではありません。「SchwerinにはDom(司教座聖堂)とDomkapitel(参事会)が残る。」「司教本人はBützowを主な居住地とする」「必要に応じてSchwerinにも滞在する」という「二重構造」でした。つまり、「宗教的中心=Schwerin」「政治・行政の中心=Bützow」という分担です。

私が面白いと思うのは…大野様はドイツ各地をご覧になっていますが、実はBützowは「司教都市」というより「司教の小さな宮殿都市(Residenzstadt)」という表現がぴったりです。そのため、「巨大なDom」「大広場」「商業都市」という雰囲気はありません。むしろ「Schloss(司教城館)」「Stiftskirche」「静かな旧市街」がコンパクトにまとまり、「これは司教が静かに行政を行うための町だ」という印象を受けます。

この話をさらに広げると、実はBützowは「なぜドイツでは小都市が重要な歴史的役割を果たすのか」を理解する好例でもあります。日本では県庁所在地や城下町が政治・宗教・商業の中心になることが多いですが、中世ドイツではそれらの機能が別々の都市に分かれることが珍しくありませんでした。その分権的な構造こそが、神聖ローマ帝国らしさを今に伝えていると言えるでしょう。

★★★ ビュッツォウ Bützow の章を終わります

シリーズ:誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte に戻ります。

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