- 2026-9-23
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★★★ヴィットシュトック Wittstock -5- からの続きです
写真の文字「Stadtverwaltung(シュタット・フェアヴァルトゥング)」はドイツ語で「市役所/市行政機関」を意味します。
「パウル織物工場(Paulsche Tuchfabrik)」は、ヴィットシュトック/ドッセの街の近代化と、かつて栄えたドイツのテキスタイル産業の歴史を今に伝える、非常に価値のある産業遺産(歴史的建造物)です。その歴史から、現在の美しい姿へと生まれ変わるまでの経緯をいくつかのポイントに分けて解説します。
1. 創業者と工場の誕生
はじまりは1845年布職人(Tuchmacher)であったフリードリヒ・パウル(Friedrich Paul)が、ヴィットシュトックの旧市街内(Heiligegeiststraße 19番地)に会社を設立したのが始まりです。産業革命と急成長ヴィットシュトックという町は、中世から羊毛や織物の生産が非常に盛んな地域でした。19世紀に産業革命が訪れると機械化が進み、パウル氏の工場も周辺の土地を次々と買い足して生産拠点を拡大していきました。
2. 街の二大巨頭へ(1905年の大移転)
1900年頃になると、ヴィットシュトックの町には「ヴェーゲナー(Wegener)」と「パウル(Paul)」という2つの巨大な織物メーカーが台頭し、何百人もの労働者を雇う街の経済の心臓部となりました。旧市街の敷地が手狭になったため、1905年に街の城壁の外側(Dosseteichと呼ばれる池の近く)に、ノコギリ屋根(シェッド屋根)を持つ近代的な大工場を新設して移転しました。この時に建てられた赤レンガ造りの美しい工場群が、今も残る建築のベースになっています。

城壁で囲まれた旧市街の右手の方に巨大な工場があります。現在はガス器具の修理センターとして機能しているようですが、私位が観た映画で従業員の女性が工場の電気を消して映画が終わった現場はこの工場だったと推察されます。東独時代の名称は「VEB Obertrikotagenbetrieb (OTB) 「Ernst Lück」」でした
3. 時代の荒波と工場の変遷
20世紀に入ると、工場は激動の歴史に翻弄されることになります。
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- 第一次世界大戦時: 軍服用の布地(Uniformtuch)の製造に特化し、軍需産業としてピークを迎えます。
- 第二次世界大戦時: テキスタイル生産はストップし、なんと航空機(アラド社)の部品工場へと転用されました。
- 東ドイツ(DDR)時代: 戦後は国に没収されて「人民公社(VEB)」となり、織物ではなく「住宅用家具の製造工場」へと姿を変えました。
- 東西統一と閉鎖: 1990年のドイツ再統一後、民営化されて家具製造が続けられましたが、競争に勝てず1995年〜1997年頃に完全に閉鎖され、廃墟となってしまいました。
4. 廃墟から「奇跡の復活」へ
工場閉鎖後、長らく手つかずの広大な「廃墟(Lost Place)」として放置され、一部の廃墟マニアの間で知られる場所になっていました。しかし、歴史的な街並みを大切にするヴィットシュトック市は、この価値ある赤レンガの建物を壊さずに再利用する一大プロジェクトを計画します。長い歳月と大規模なリノベーションを経て、2024年に近代的な「市役所分庁舎(Stadtverwaltung)」および地域の交流拠点として完全によみがえりました。
💡 見どころ現在この敷地は、歴史的な赤レンガのファサード(外観)を残しつつ、内部はガラスや最新のオフィス設備を融合させた見事なコンバージョン建築(用途変更建築)として、ドイツ国内でも高く評価されています。古い産業のシンボルが、形を変えて現代の街のインフラ(市役所)として今も住民に愛され、息づいているのがこの「パウル織物工場」の最大の魅力です。
歯医者さんの看板のようですね
★★★ヴィットシュトック Wittstock -7- に続きます
































