誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(116)★★★ ビュッツォウ Bützow -1-

メクレンブルク=フォアポメルン州のビュッツォウ Bützowをご紹介します。訪問したのは 2025年 5月 2日です。

ビュツォウ [ˈbʏt͡soː] は、北ドイツの小さな町(Kleinstadt)であり、かつては司教の居城や大学都市として知られ、ロストック郡の中メクレンブルク地方にあるヴァルノウ川沿いに位置する。同市は、さらに11の自治体が属するビュツォウ=ランド行政区の行政中心地である。また、この町は周辺地域にとっての基幹拠点となっている。
この町はメクレンブルク=フォアポンメルン州の北部に位置する。基底モレーンとモレーンに挟まれたヴァルノウ川の広い渓谷が、ビュッツォウを北西部と南東部の2つの区域に分けている。北側にはビュッツォー湖と、ネーベル川がヴァルノウ川に合流する地点がある(独語Wikipedia)・・・というような町です。

ちなみに連邦建設・都市・地域研究機関では小都市(Kleinstadt):5,000~20,000人・中都市(Mittelstadt):20,000~100,000人・大都市(Großstadt):100,000以上と分けているんですね。

地図は Wismarや Güstrowで使ったのと同じものをアップしておきます。Güstrowから Wismarの方に 10kmほど寄ったところにあります。まあ Wismarや Güstrowを★★★としたんだからここは★★★でいいでしょう。行かれたことのある方はおられますか?

Wappen Lage Data

独語 Wikipedia
Bützow の公式サイト
Bützow の観光サイト
Liste der Baudenkmale in Bützow

この町には流石に来たことはありません。今回が初回訪問です。

でもなんでこんなところに?一応町の存在は知っていました。この辺りの歴史を調べていると時々名前を見かけます。あと、動画を検索していて、東独時代のこの町のもので「トラバントがパタパタパタという排気音をたてながら Lange Strasseを走ってきて Rathausの方角に曲がっていく」ほんの 10秒ほどのものがあったんです。東独末期のボロボロの街並みで、Gloomyな曇り空で・・・そんな動画に心惹かれたんです。変態ですね(笑)それに Güstrowは隣駅でローカル列車で 9分、Güstrowまで来たなら寄らない手はありません。

歴史

町の名称

1171年以降、この地は Butissoweあるいは Butessoweと呼ばれ、1229年からは短縮形として Buszoweまたは Butzowと呼ばれるようになった。比較言語学の知見によれば、この地名は、ポラビア語における人名 ButišBudiš、あるいは Bytišの短縮形に由来する。これらは、Budizlawというフルネームの一部であり、この名前はソルブ人、チェコ人、ポーランド人の間でも用いられていた。したがって、ビュツォウは Budišまたは Budizlawの地ということになる。

中世

1171年、ビュッツォウ地方(Terra Butissowe)にあるスラブ系のホップフェンヴァルにある公爵の城(castrum Butissowe)が言及された。1180年頃、ビュッツォウはベルノ司教のもとで初めて司教の居城となり、1229年には同司教による最初の公文書が残されている。おそらく1229年以降、ドイツ式の都市として計画的に整備が進められ、1236年に都市権を付与された。この都市はシュヴェリーン司教の所有下にあった。1239年にはシュヴェリーン司教区の主要な居城となった。1248年には、聖エリザベス市教会参事会修道院が設立された。教区議会はビュツォウで開催された。1252年、ビュツォウ市の要塞化と司教城の建設が始まった。1270年以降、ここには大助祭区が置かれた。1468年、共同生活修道女会のためのベツレヘム修道院ロストック門の前に設立され、1469年にヴェルナー司教によって規則が定められた。宗教改革後、ウルリヒ公の妃であるエリザベスは、1567年に同修道院を公爵領の救貧院および病院へと改組した。1540年、シュヴェリーン大司教区は世俗化された。ビュツォウはメクレンブルク公爵家の支配下に入った。1556年、ビュツォウ城の新築工事が完了した。1586年、シュヴェリーン=ビュツォウ司教区の管理者として、ウルリヒ公はビュツォウにおける公爵領の製紙工場の建設を承認した。1588年、ビュツォウ市の市議会と市参事会員は、貧しい市民を収容するための市営市参事会救貧院の建設を決定した。

✙✙ 長くなるので折りたたんでいます。展開するにはここをクリック下さい
17世紀から19世紀

1648年、司教区の中心地であったビュツォウは、シュヴェリーン司教区とともにメクレンブルクに譲渡され、以後、いわゆる「司教領」も含まれるメクレンブルク=シュヴェリーン地方に地方都市として編入された。

1699年から1703年にかけて、ユグノーの家族が同市に定住し、羊毛加工やタバコ栽培に従事した。フリードリヒ・ヴィルヘルム1世公の死後、その未亡人であるゾフィー・シャルロッテ(メクレンブルク公妃)は、1713年から1749年まで宮廷一行を率いてビュッツォー城に移り住んだ。

公爵の臣民の中には、1709年にヘッセンで設立された改革派の「トイチェ」宮廷教会があり、そこからビュッツォーのドイツ改革派教会が誕生した。また、ソフィー公爵夫人は、1703年にビュッツォーで設立されたフランス改革派教会の後見人も務めた。両教会は、ドイツ北東部では類を見ない改革派教会を建立した。これらを母体として、1778年にフランス・ドイツ合同教会が、1786年にはメクレンブルク州のすべての改革派信徒を包含するビュツォー改革派教会が誕生した。

1716年、市街地火災により市庁舎とビュツォーの大部分が焼失した。早くも1738年、メクレンブルク州で最も早い時期の一つとして、ここにユダヤ人による新たな入植地が形成され、その中にはアーロン・イサクも含まれていた。1760年から1789年にかけて、城はビュッツォー教育学院および、公爵フリードリヒによって設立されたフリードリヒ大学の本拠地として機能した。同大学は、特に神学上の相違を理由に、ロストック大学に対抗する存在となることを意図していた。

フランス革命によって引き起こされた社会的・政治的緊張は、ビュツォウでも騒乱へとつながった。1794年のいわゆる「ガチョウ戦争」は、市民と市議会との間の不満の表れであった。 ヴィルヘルム・ラーベは、自身の短編小説『ビュツォウのガチョウ』の中で、この出来事に言及している。1812年から1879年にかけて、大公刑事裁判所はビュッツォー城に置かれていた。この期間、新築工事に伴い、2つ目の刑務所である中央刑務所も建設された。1839年には、メクレンブルク=シュヴェリーン大公領のドライベルゲン州立刑務所(現在のビュッツォー刑務所)が開設された。

1850年、ビュツォウはロストック、シュヴェリーン、ギュストローへの鉄道接続を得て、最初の駅舎が建設された。1879年にはビュツォウ地方裁判所が設立された。1894年には、産業建築の技術的記念物であるビュツォウ大公領水車小屋が建設された。1898年から1914年にかけて、カーニバルシーズンにはこの町でビュッツォー・ホーフタークが開催された。

1650年頃のビュツォウの街並み

20世紀

当初のビュツォウのルネサンス様式の城は、1910年から1911年にかけて上級建築技師アドルフ・プラストの指揮の下で改築され、簡素な3階建ての漆喰造りの建物へと生まれ変わった。同年、ツェペリナー・ホルツの森の中で、フェルディナント・フォン・ツェッペリン伯爵に捧げられたドイツ初のツェッペリン記念碑が除幕された。1918年まで、ビュッツォーはメクレンブルク郡の一部として州議会に代表を送っていた。1920年、カップのクーデターに伴うゼネストがビュッツォーでも発生し、その際に労働者のエルンスト・ムントが命を落とした。

1933年から1945年にかけてのナチス政権下において、ビュッツォーでは、ドイツの他の多くの都市と同様に、ナチズムの影響力がますます強まった。

特に甚大な被害をもたらしたのは、クローペリンへと続く地方道路沿いにあるユダヤ人墓地の冒涜であった。しかし、第二次世界大戦終結後、ソ連の市司令官の命令により、この墓地は復元された。1938年の11月ポグロムの後、かつてのビュッツォウのユダヤ人コミュニティからは、高齢のユダヤ人夫婦ただ一組だけが残っていた。1942年11月、この夫婦はテレージエンシュタット強制収容所へ強制移送され、1943年に二人ともそこで亡くなった。

この町は、その刑務所の存在により、ナチスの司法制度において特別な役割を果たしていた。第二次世界大戦中、ポーランド出身の男女は(ヴァルトホフの向かいにあるヴィアブルクのバラックに収容され)、またソ連の戦争捕虜は(ビュツォウ/ヴォルケンの踏切付近のバラックに収容され)、軍需産業のための強制労働を強いられた。1933年から1945年にかけて、ドライベルゲン=ビュッツォー刑務所には平均900人の受刑者が収容されていたが、1944年にはその数は3,000人に増加した。1942年には16名の受刑者、1945年には計70名の受刑者がナチス政権によって処刑され、その多くは事前の裁判による判決なしに行われた。過酷な収容環境により計771名の受刑者が死亡し、彼らは墓地の4か所の集団墓地に埋葬された。

1945年5月3日に赤軍が侵攻した後、ドライベルゲン刑務所は当初、送還収容所として利用された。シュロス広場にある旧中央刑務所の棟の一つが、政治犯の収容施設として用いられた。1951年1月1日、人民警察がこの刑務所を引き継ぎ、ビュツォウは数百人のSED政権の反対者を収容する場所となった。特に衝撃的だったのは、1953年の「ローズ作戦」の一環として行われた裁判で、447人の飲食店およびホテル経営者が法廷に立たされた。「ビュツォウ刑務所」という名称は、東ドイツ北部における政治的反対者への過酷な弾圧の代名詞となり、バウツェン刑務所に匹敵するものとなった。

1946年4月と5月、ビュツォウで10人の青少年(15歳以上)と1人の成人がソ連の秘密警察NKVDによって逮捕され、拷問を受けて「戦時中に赤軍と戦うつもりだった」という自白を強要された。成人は銃殺され、有罪判決を受けた青少年のうち3人は収容所で死亡した。1993年、このグループ全員がロシア連邦の検事総長庁によって名誉回復された。

1586年に建設され、1945年に戦後賠償の一環として解体されたビュッツォー製紙工場の敷地には、1949年に建築・家具大工業を営む国有企業が設立された。これは VEB「エルンスト・ムント」ビュッツォー家具工場へと発展し、1990年代初頭まで存続した。

1950年7月1日、それまで独立した自治体であったホルストとヴォルケンが市に編入された。1952年には地方裁判所が廃止され、ビュツォー郡裁判所に置き換えられた。同裁判所は「アクション・ローゼ」の一環として恣意的な判決を下したことで知られていた。ドイツ再統一後、ビュツォー地方裁判所が新設されたが、1997年にギュストロー地方裁判所の支所へと改組され、最終的に1999年に閉鎖された。1952年から1994年まで、ビュツォーは同名の郡の郡庁所在地であり、当初はシュヴェリーン管区に属し、1990年以降はメクレンブルク=フォアポンメルン州に属していた。1994年から2011年まで、この町はギュストロー郡に属していたが、それ以降はロストック郡に属している。ドイツ再統一後、市庁舎を含む歴史的な市街地中心部は、都市再開発の一環として大規模に改修された。1999年1月1日、パルコウ村が合併された。

21世紀

2008年9月23日、同市は連邦政府から「多様性の街」の称号を授与された。

駅から町の賑やかなところまでは約 1.5kmほど離れているようです。間にあるのは湿地帯のようなものでしょうか・・・

・・・ということで、駅からはズルをして(笑)バスに乗ります

これは町の入り口ではなくドンづまりの奥の方です。奥まで行って駅に戻るように歩きます。

廃墟化した家屋の前には立ち入りをブロックする低いフェンスがあります。漸く予算が回ってきてリノベーションが始まるのでしょうか?

靴職人の家屋のようです。外壁には「Heinrich Biehl, Schuhmachermeister(靴職人マイスター、ハインリヒ・ビール)」という往時の看板をしめす文字が残されています。

★★★ ビュッツォウ Bützow -2- に続きます

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