- 2026-7-24
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★★★ ギュストロウ Güstrow -4- からの続きです
あら!お城は修復中で中には入れませんでした。街中の修復と言い、やはりかなり大規模な予算が付いたんですね。まあ、前に来た時に入ってるからいいか。Wikipediaはこちらです。
ギュストロー城は、メクレンブルク=フォアポンメルン州のロストックの南に位置するギュストロウにある。16世紀から17世紀にかけて、シュヴェリーン城と並んで、メクレンブルク公爵家の第二の主要な居城であった。
ギュストロー城は、北ドイツで最も重要なルネサンス建築の一つとされており、19世紀に歴史主義様式で改築されたシュヴェリーン城とは異なり、ほぼ当時の姿のまま保存されている。この城は、ルートヴィヒスルスト城や、破壊されたノイシュトレリッツ城と並んで、同州で最も重要な居城の一つであった。
この写真を撮ったのはこの辺りだったはずなんですが、見つかりませんでした
ChatGPTに対する質問:Güstrowの Amtsgerichtの前にある慰霊塔について教えてください
ChatGPTの回答:これはグストローの中でも最も重要な記念碑の一つで、**「メクレンブルク解放戦争(Befreiungskriege)記念碑」**です。現在はAmtsgericht(区裁判所)の前、Franz-Parr-Platzに建っています。
この記念碑は「建立:1863~1865年」「除幕:1865年7月12日」建立目的:1813~1815年のナポレオン戦争(ドイツでは「解放戦争」)で戦ったメクレンブルクの兵士を顕彰するために建てられました。
なぜギュストロウなのか?:これは大変興味深い点です。
1813年、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世が「An Mein Volk(国民に告ぐ)」を発してナポレオンへの反攻を呼びかけると、メクレンブルクでも義勇兵募集が始まります。ギュストロウには約1,200人もの志願兵が集結し、徒歩猟兵隊や騎兵隊がここから出征しました。そのため、この都市はメクレンブルクにおける解放戦争の象徴的な場所となったのです。
写真の碑文:「DEN KÄMPFERN MECKLENBURGS IN DEN BEFREIUNGSKRIEGEN 1813–1815」これは「1813~1815年の解放戦争で戦ったメクレンブルクの戦士たちに」という献辞です。「fallen(戦死者)」ではなく**Kämpfern(戦った者たち)**となっているのが特徴で、戦没者慰霊だけでなく、志願して祖国のために戦った人々全体を顕彰しています。
もうひとつの写真の碑文:こちらには「NACH FÜNFZIG JAHREN DAS DANKBARE VATERLAND」と刻まれています。訳すと「五十年を経て、感謝する祖国より」という意味です。つまり「1813 → 1863」ちょうど50周年を記念して建立が始まったことを表しています。
四隅の女性像:非常に美しい女性像が 4体配置されています。それぞれは寓意像(Allegorie)で、「戦争(Krieg)」「勝利(Sieg)」「悲嘆(Trauer)」「平和(Friede)」を象徴しています。写真3の左側の人物は喪服姿で**「悲嘆」、右側は剣を持っているので「戦争」または「勝利」**を表しています。
肖像:写真3には王冠の下に男性の横顔が見えます。これはメクレンブルク大公フリードリヒ・フランツ1世です。反対側にはフリードリヒ・フランツ2世の肖像があります。つまり解放戦争当時の君主建立当時の君主の二人を並べているわけです。
頂上の像:頂上には旗に囲まれた直立した大砲があります。これは「勝利」「国家防衛」「軍人の勇気」を表しています。ローマ帝国以来の「戦勝記念柱(Trajanssäule)」の伝統を受け継いだ構成になっています。
鋳鉄製という点が重要:実はこの記念碑は高さ約15m、重量約19トンにもなる巨大な鋳鉄製で、ドイツで2番目に大きい鋳鉄製記念碑とされています。265個もの鋳鉄部品を組み立てて造られました。
DDR時代によく残った:大野さんが旧東ドイツの都市を巡られていていつも感じられているように、この記念碑もDDR時代を生き延びました。これは興味深い点です。DDRはプロイセン軍国主義を批判していましたが、1813年の解放戦争は「ナポレオン支配に対する人民の民族解放運動」という側面もあるため、完全には否定されませんでした。ただし保存状態は悪化し、1987年には倒壊の危険があるほど腐食していました。その後、部材を一度すべて解体し、失われた部品を鋳造し直すという大修復が行われ、1994年に現在の姿へと復元されました。
私が特に興味深いと思う点:この記念碑は、ドイツ各地に見られる「1870~71年の普仏戦争戦勝記念碑」とは思想が少し異なります。建立は1865年、つまりドイツ帝国成立(1871年)以前です。そのため、この記念碑が讃えているのは「ドイツ帝国の栄光」ではなく、「メクレンブルクという地域共同体」「ナポレオン支配からの解放」「志願兵の献身」「祖国への感謝」という、地域的・愛国的な記憶です。その意味では、後の帝国主義的な戦勝記念碑よりも穏やかな性格を持っています。
大野さんが以前、「Reichという言葉は日本人が抱く『帝国主義』とは必ずしも一致しない」とおっしゃっていましたが、この記念碑もまさにその延長線上にあります。ここで語られているのは、帝国の栄光というよりも、ナポレオン支配から故郷を守ろうとした人々への感謝と記憶なのです。





































