誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(55):★★★ロスラウ Roßlau (Elbe) -3-

★★★ロスラウ Roßlau (Elbe) -2- からの続きです

しかし・・・店がありません。そろそろ昼なので軽く何かを食べてもバチは当たらないだろうと飲食店を探すのですが・・・無いんですね、これが!マルクトに行けば何かあるだろうと期待はしたのですが・・・

Rathaus Roßlau

Roßlauは長い時間をかけて、ゆっくりと町として発展し重要性を増していった。町として初めて言及されたのは 1382年だが、300年後の 1685年になっても、この地は Flecken(集落)と呼ばれていた。これは住民数の少なさと対応しており、1541年に町会が記載されている場合でも、住民数は 400人程度に過ぎなかった。ギルドについて最初に言及されたのは 1633年頃である。

1740年、アンハルト・ツェルブスト公ヨハン・アウグストが、ロスラウに市庁舎を建設することを承認した。しかし、1742年に彼が亡くなったことで、建物の完成が大幅に遅れてしまった。歴史的な見解では、強調された中央のリザリットとその上の屋根櫓を持つ左右対称の建物である。

1797年に Roßlauが Anhalt-Köthenの一部となったとき、August Christian候は上階に学校を建てるよう命じた。19世紀半ばにこれでは足りなくなったため、1858年から 1860年にかけて、まず市庁舎の増築の交渉が行われたが、その結果、建物全体が学校となり(1861年10月21日に学校として開校)、町の行政は城に移されることになった。また、この改造の際に尖塔も失われた。

しかし、学校のスペースに対するニーズは高まり続け、結局 1878年から 1879年にかけて新しい学校が建てられ、1879年5月に学校は引っ越し、一方、町の行政はその後に再び引っ越してきた。その後も建物はアンハルト候の所有となり、1901年に至っては、町からの買い取りの申し出が却下された。侯国政府には建物のための資金がなく、市はテナントに過ぎなかったため、状態は驚くほど悪化し、1927年には建物の取り壊しが勧告され、その頃にはシュタットハウスと呼ばれるようになった。

1932年、ついに再建が決定し、1934年に実施された。その 1年後、Roßlauは Dessauに編入され、この建物は再び余剰となった。主な利用者は、現在では地方裁判所であり、後に地方裁判所となったが、これも 1960年に移転している。そこへ SEDの地区指導者が移り住み、以前の本部は地区の文化センターになった。1972年から 1975年にかけて、この建物は改築された。共産主義崩壊後、市当局が再び入居したが、所有権は難しいままだった。 現在、建物は別の用途に使われている。現在、建物にはロスラウ市民事務所などが入っている。

をい、なんだこれは?痩せても枯れても「マルクト」だろう、ここは?なんだ、このゴーストタウン的な人気(ひとけ)の無さは?贅沢なレストランは望まないから、カフェかクナイペは開いてないのか?天気がいいので喉が渇いてきたんだけど・・・?

左手の居酒屋・・・期待したんだけど、閉まってました・・・夜は開いてるのかね?なんか期待薄だなあ・・・

★★★ロスラウ Roßlau (Elbe) -4- に続きます

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