お気に入りのホテル(15): Hotel Alte Canzley Wittenberg

マルティン・ルター縁の町「ヴィッテンベルク」のホテル Alte Canzleyです。下の公式サイトの写真からもお分かりの様に、Lutherがその扉に「95ヶ条の論題」を打ち付けたとされる Schlosskircheと、通りを挟んで向い側にあり、1391年に建てられ、ホテルの名前からも想像できるように、ザクセン・ヴィッテンベルク選帝侯の宰相のオフィス(今風に言えば「首相官邸」?)として使われたという由緒ある建物です。

2017年の、宗教改革 500周年の記念の年は諸行事や観光客で結構賑わったのだろうと思いますが、私が泊った 2018年 3月はもうかなり落ち着いていたと思われ、部屋の価格もそう高くはなかったので、一番広い部屋(65m2)に泊まってみました。部屋の名前は “Martin Luther King”、価格は €110.-くらいでした。

もっとちゃんと撮ればよかったのですが、窓の外に Schlosskircheが見え、95ヶ条の論題を打ち付けたとされる扉もちらっと映っています。


ここのレストランは、無農薬などの基準をクリアした材料を扱う「BIO」の認証を受けています。
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ここから下はドイツ語が理解できる方向けの、ちょっとした実験です。ホテルの公式サイトからこの建物の歴史についての記述を抜き出して、これを「Google翻訳」と、最近評価が高まっている「deepl.com」の両方にかけて、その翻訳精度を比較してみました。結論から申せば、一長一短で両方ともパーフェクトではありません。ただ、Google翻訳が AIの翻訳エンジンを実装する以前の「独日・日独」はほぼ使い物にならなかったことから考えると、随分な進化を考えます。このレベルなら、少しドイツ語やドイツ史の知識があればブラッシュアップできると思われます。

【オリジナル】
Geschichte des Hotels „Alte Canzley“ in Wittenberg
Ein historisches Gebäude in einer historischen Stadt

Laut historischen Aufzeichnungen wurde das erste Gebäude am Standort der Alten Canzley im Jahre 1391 von Dr. Johannes Ferwer errichtet. Die Alte Canzley ist daher eines der ältesten Gebäude Wittenbergs und datiert auf eine Zeit zurück, die mehr als ein Jahrhundert vor der Entdeckung Amerikas durch Columbus liegt.

Wesentliche Teile der damaligen Architektur sind noch heute im Gebäude erhalten, darunter der historische Turm mit einer mittelalterlichen Wendeltreppe, die Mauern und Decken des mittelalterlichen Speisezimmers (das heutige Restaurant) und viele andere Besonderheiten.

Dies ist jedoch nur die „neuzeitliche Geschichte“. Kürzliche archäologische Ausgrabungen auf unserem Grundstück bestätigten, dass die Örtlichkeit – bevor das Haus 1391 gebaut wurde – Teil einer antiken Festung der „Askanier“ war. Das Kernstück der Relikte aus dieser Zeit ist ein 27 Meter tiefer antiker Steinbrunnen. Als der Morast auf dem Grund des Brunnens untersucht wurde, entdeckten die Archäologen einen auf das 11. Jahrhundert zurückgehenden historischen Beleg für die Bewohner des Ortes. Der Schmuck, die Glaswaren und andere antike Artefakte bezeugen, dass Wittenberg – und der antike Schlossbrunnen hinter dem heutigen Hotel – am Kreuzungspunkt alter Handelsrouten lag, die sich von West-Europa bis zum Mittleren Osten ausdehnten.

1399, 8 Jahre nachdem der Grundstein für das gegenwärtige Gebäude gelegt wurde, nannte man das Haus „Thurmpropstei“. Später bekam es den Namen „Canzley“ und war Residenz und Dienststätte der Kanzler des Kurfürsten – ein „Kanzleramt“ der damaligen Zeit.

1521, nur vier Jahre, nachdem Martin Luther seine 95 Thesen anschlug, zog der Kanzler Justus Jonas in das Gebäude und erwarb es 1528. Jonas lebte dort bis 1541. Als Meister in Latein und Deutsch war er – zusammen mit Luther und Melanchthon – einer der Schlüsselfiguren, die dabei halfen, die in dieser Zeit in Latein verfasste Heilige Schrift in die gesprochene Sprache zu übersetzen. Bei der Übersetzung des Alten Testaments fragte Luther ebenfalls Jonas um Rat.

Die detaillierten Aufzeichnungen der Alten Canzley zeigen, dass Justus Jonas der Jüngere 1558 das Haus kaufte und es für „3100 Thaler“ – die mittelalterliche Währung, von welcher der moderne „Dollar“ abstammt – renovierte. Diese Renovierung beinhaltete auch die Errichtung des „Wendelsteins“ – die 55 Meter hohe Wendeltreppe –, Pendant des neuzeitlichen Aufzugs.

Bis ins 18. Jahrhundert wurde das Gebäude als Gästehaus für die Könige genutzt, die in Wittenberg residierten. Darüber hinaus wurde Wittenberg in den Jahrhunderten nach der Bekanntmachung der 95 Thesen als Ausgangspunkt der protestantischen Bewegung anerkannt. Allerdings geht die Bedeutung Wittenbergs weit über jede religiöse Relevanz hinaus.

【Google翻訳】
ヴィッテンベルクにあるホテル「アルテカンズリー」の歴史
歴史的な街の歴史的な建物

歴史的な記録によると、アルテカンズリーサイトの最初の建物は、1391年に博士によって建設されました。ヨハネス・ファーワーが建立した。したがって、アルテカンズリーはヴィッテンベルクで最も古い建物の1つであり、コロンブスがアメリカを発見する前の1世紀以上の時間にさかのぼります。

中世の螺旋階段のある歴史的な塔、中世のダイニングルーム(今日のレストラン)の壁と天井、その他多くの特別な特徴を含む、当時の建築の重要な部分は現在も建物に保存されています。

しかし、これは「近代史」にすぎません。私たちの財産に関する最近の考古学的発掘調査により、1391年に家が建てられる前の場所が、古代の「アスカニアン」要塞の一部であることが確認されました。この時代の遺物の目玉は、深さ27メートルの古代の石の噴水です。井戸底の泥を調べたところ、考古学者たちは11世紀にさかのぼる町の住民の歴史的証拠を発見しました。ジュエリー、ガラス製品、その他の古代の遺物は、ヴィッテンベルクと今日のホテルの背後にある古代の城の噴水が、西ヨーロッパから中東に伸びる古い交易路の交差点にあったことを証明しています。

現在の建物の礎石が築かれてから8年後の1399年、この家は「サームプロプステイ」と呼ばれました。後にそれは「Canzley」という名前を得て、当時の「首相府」である選挙人首相の住居および事務所となりました。

マーティンルーサーが95の論文を投稿してからわずか4年後の1521年、Justus Jonas首相が建物に移り、1528年にそれを取得しました。Jonasは1541年までそこに住んでいました。当時ラテン語で書かれた経典を話し言葉に翻訳するのを助けた主要人物。旧約聖書を翻訳するとき、ルターはジョナスにもアドバイスを求めました。

オールドカンズリーの詳細な記録によると、1558年に若いジャスタスジョナスが家を購入し、現代の「ドル」の元となった中世の通貨である「3100ターラー」に改築したそうです。この改修には、高さ55メートルのらせん階段である「ヴェンデルシュタイン」の建設も含まれています。

18世紀まで、この建物はヴィッテンベルクに住んでいた王のゲストハウスとして使用されていました。さらに、95の論文が発表された後、ヴィッテンベルクは何世紀にもわたってプロテスタント運動の出発点として認識されました。しかし、ヴィッテンベルクの重要性は、いかなる宗教的関連性をはるかに超えています。

【deepl.com】
ヴィッテンベルクのホテル「アルテ・カンツレー」の歴史
歴史ある街の歴史的建造物

歴史的な記録によると、オールド・カンズリーの敷地内に最初に建てられた建物は、1391年にヨハネス・フェルワー博士によって建設されたとされています。そのため、オールド・カンツレーはウィッテンベルクで最も古い建物の一つで、コロンブスがアメリカを発見する1世紀以上前の時代にさかのぼります。

中世の螺旋階段を持つ歴史的な塔、中世の食堂(現在のレストラン)の壁や天井など、当時の建築の重要な部分が今も残っています。

しかし、これはあくまでも「近代史」である。私たちの財産の最近の考古学的な発掘調査では、家が1391年に建てられる前の場所が「アスカニア人」の古代の要塞の一部であったことが確認されました。この時の遺物の核心は、深さ27メートルのアンティーク石の井戸です。井戸の底の泥を調査したところ、考古学者は11世紀にさかのぼるこの場所の住民の歴史的な記録を発見しました。宝石類、ガラス製品、その他の古代の工芸品は、ヴィッテンベルクと今日のホテルの背後にある古代の城の噴水が、西ヨーロッパから中東へと伸びる古代の交易路の交差点に位置していたことを証明しています。

現在の建物の礎石が敷かれてから8年後の1399年、この家は「Thurmpropstei」と名付けられました。後に「カンズリー」と名付けられ、選帝侯の住居兼事務所、つまり当時の「首相官邸」となった。

1521年、マルティン・ルターが95の論文を提出してからわずか4年後の1528年、ユストゥス・ヨナス首相がこの建物に入居し、1541年まで住んでいました。 ラテン語とドイツ語の名手として、ルターやメランクトンとともに、ラテン語で書かれた聖典を当時の言語に翻訳することに貢献した重要人物の一人です。旧約聖書の翻訳では、ルターもヨナスに助言を求めています。

オールド・カンズリーの詳細な記録によると、ユストゥス・ヨナス・ザ・ヤングが1558年にこの家を購入し、現代の「ドル」の元となった中世の通貨「3100タラー」のために改装したことがわかります。この改装には、高さ55メートルの螺旋階段「ヴェンデルシュタイン」の建設も含まれています。

18世紀までは、ヴィッテンベルクに居住していた王たちの迎賓館として使用されていました。さらに、ウィッテンベルクは、「九十五のテーゼ」の出版から数世紀の間にプロテスタント運動の出発点として認識されていた。しかし、ウィッテンベルクの重要性は、宗教との関連性をはるかに超えている。

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