誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(105)★★★ メルゼブルク Merseburg -4-

メルゼブルク Merseburg -3- からの続きです

アブラハム・オーブリーによる銅版画に描かれた皇帝と帝国、ニュルンベルク、1663/64年。
中央には、帝国の首長である皇帝フェルディナント3世が、選帝侯たちに囲まれて描かれています。彼の足元には、帝国を象徴する女性の姿があり、帝国の帝国玉の紋章でそれがわかります。彼女を取り囲む果実は、三十年戦争終結後の新たな繁栄への希望を象徴している。
原画には、次のように署名されている。ドイツの歓喜の叫び / 幸福の継続 / 神とともに / レーゲンスブルクで開催された神聖ローマ帝国最高指導者と諸侯の総会

ChatGPTとの対話がかなり楽しいので、この際成立期の神聖ローマ帝国について気になっていたことをぶつけてみます。最初は皇帝の「巡回制」です。

初期の神聖ローマ帝国では「首都」という概念がなく、皇帝は旅をしながら統治した(der reisende König)という事実をご存じだったでしょうか?

前の項目で「皇帝の巡回制」という単語が出てきました。皇帝がベルリンのような首都に君臨せず、地方の Kaiserpfalzを巡回しながら統治したということと理解します。この Kaiserpfalzはどういうところが選ばれたのでしょうか?また滞在期間は短く直ぐにまた巡回の旅に出たのでしょうか?あるいは長くとどまったのでしょうか?

ChatGPT:はい、その理解でほぼ完璧です。中世の皇帝(=王)はベルリンのような固定首都に座る存在ではなく、Kaiserpfalz(王宮・行在所)を巡回することで統治が成立する存在でした。これは暫定措置ではなく、制度としての「巡回制(Reisekönigtum)」です。

1. Kaiserpfalzとは何か(まず定義)

Kaiserpfalzとは皇帝/王が一時的に滞在し統治行為を行う場所であり恒久首都ではない。行政・裁判・儀礼・饗応を同時に行う「統治の舞台」👉 「皇帝がいる場所=首都」これが中世の基本ロジックです。

2. どういう場所が Kaiserpfalz に選ばれたのか

明確な基準がありました。主に 5条件 です。
① 王領(Krongut)が集中している場所
 皇帝は税を直接集められない。代わりに:王領の収穫、家畜・穀物・労役で宮廷が養われる👉 自給できる場所でないと滞在不可

② 教会・修道院が近接している
 司教・修道院長は皇帝の官僚。文書行政・儀礼・教育を担う。例:Quedlinburg、Aachen👉 Kaiserpfalz+大聖堂/修道院は基本セット。

③ 交通の要衝(河川・街道)
 道路網が貧弱で河川が最重要インフラ。典型例:ライン川(Ingelheim)、エルベ川(Magdeburg)、ザーレ川(Merseburg)👉 人と物が集まれる場所

④ 象徴性・王朝的記憶
 戴冠地、祖先の拠点、王朝の墓所、代表例:Aachen(カール大帝)、Goslar(鉱山)👉 正統性を“見せる”ための場所

⑤ 軍事的安定性
 城塞的防御、反乱の少なさ、👉 前線では長期滞在しない

ウィーン・ホーフブルク宮殿の宝物館にある、帝国宝飾品の一部である帝国王冠

843年のヴェルダン条約(ヴィルテン)におけるフランク王国の領土分割

1000年頃の帝国

3. 滞在期間はどれくらい?
結論:短いのが原則、例外的に長い
■ 通常
 数日〜数週間:裁判・勅令公布・会議・宗教行事を実施、食料が尽きる前に移動👉 「統治イベント型滞在」
■ やや長期(数か月)
 重要な宗教暦(復活祭・降誕祭)、帝国会議(Hoftag)、戴冠・婚姻・大規模儀礼、例:Goslar、Quedlinburg
■ 長期滞在(例外)
 病気、戦争、王朝的理由👉 制度としては想定外

4. なぜ「動く」必要があったのか
理由は3つ
① 経済的理由:一か所では宮廷を養えない。移動=負担の分散
② 政治的理由:皇帝の存在そのものが統治。不在=支配の空洞化👉 見せない権力は存在しない
③ 法的理由 :裁判は「王の面前」で行われる。文書は「王のいる場所」で発効

5. 巡回ルートはランダムではない
実はかなり固定化されています。例(オットーネン朝):Aachen→ Cologne→ Ingelheim→ Goslar→ Quedlinburg→ Merseburg 👉 年周暦+政治行事に沿ったループ

6. では「首都」はなぜ生まれなかったのか

官僚機構が未成熟、常設税制なし、王権=人格的支配 👉 「場所」より「人」が国家だった

7. いつ巡回制は終わるのか

13世紀以降:官僚制発達、常設財政
それでも:神聖ローマ帝国では完全には終わらない
例:ウィーン定着はかなり後世、それでも「帝国の首都」とは言い切れない

まとめ(核心だけ)

Kaiserpfalz は 👉 経済・宗教・象徴・交通の交点
滞在は 👉 短期が原則、長期は例外
巡回制は 👉 未成熟な国家形態ではなく、完成された制度
皇帝とは 👉 「動くことで統治する存在」

巡回制が終焉を迎えるのはいつごろでしょうか?ハプスブルク家が皇帝位を世襲しウィーンを首都とするまで続いたのでしょうか?

ChatGPT:とても良い問いです。結論から言うと――

巡回制(Reisekönigtum)は「ある日突然終わった」のではなく、14〜16世紀にかけて段階的に“骨抜き化”され、ハプスブルク家の時代に事実上終焉を迎えます。ただし、完全に消滅したわけではありません。順を追って整理します。

1.まず短い結論整理

巡回制の黄金期:10〜12世紀(オットーネン朝〜シュタウフェン朝)
形骸化の始まり:13世紀後半
制度的な終焉:15世紀(ハプスブルク家の定着)
象徴的残存:18世紀まで(帝国議会など)

👉 つまり「ハプスブルク家が皇帝位を世襲し、ウィーンに定着する過程で終わった」という理解は 8割方正しい です。

2.なぜ巡回制は終わらざるを得なかったのか

理由は一つではありません。

① 帝国の「分解」が進んだから
13世紀以降の神聖ローマ帝国では:諸侯が課税権、軍事権、外交権を事実上掌握。皇帝は全域を実効支配できない 👉 巡回しても「統治」にならなくなった

② 常設官僚制が生まれた
文書行政の定着、書記局・宮廷会計の常設化、皇帝不在でも政治が回る 👉 「皇帝が動く必要」が消滅

③ 経済条件の変化
宮廷を養う王領経済が縮小、現金経済・租税国家へ移行 👉 巡回制の前提(現物給付)が崩壊

3.決定的転換点①:大空位時代(1250–1273)
Great Interregnum:皇帝不在が20年以上続く。帝国が「皇帝なしでも回る」ことを証明 👉 巡回制の前提が制度的に否定された

4.決定的転換点②:ハプスブルク家の登場

House of Habsburg:Rudolf I(1273–1291):皇帝位獲得、オーストリアを事実上の本拠化、まだ巡回制は残存 👉 過渡期
Friedrich III(在位 1440–1493):ここが本当の転換点です。皇帝位を長期保持、行動範囲が極端に縮小。ウィーン常駐化 👉 巡回制は「例外的行為」に転落

5.ウィーンは「首都」だったのか?:答えは微妙です。

■ ハプスブルク家にとって:ウィーン=家産国家の首都
■ 神聖ローマ帝国にとって:ウィーン=皇帝の居所。帝国首都とは法的に定義されない 👉 「事実上の首都」だが「制度上の首都」ではない

6.それでも巡回制は完全に消えなかった。なぜか?

帝国は最後まで「連邦的」だったからです。皇帝は帝国議会(Reichstag)に出向く。例:Regensburg(永続帝国議会)、Regensburg 👉 巡回=統治ではなく、儀礼と調停として残存

7.Otto der Großeの時代と何が違うのか
👉 皇帝という存在の性格が変わった

8.最終的な終焉

1806年:神聖ローマ帝国解体、巡回制という概念自体が無意味に

まとめ(腑に落ちる形で)

巡回制は 👉 中世国家に固有の完成された制度
終焉は 👉 ハプスブルク家による定着支配と官僚化
ただし 👉 象徴的・儀礼的巡回は最後まで残った
ウィーンは 👉 ハプスブルク家の首都であって、帝国の首都ではない

最後に一言で言うと:「皇帝が動く帝国」から「皇帝のいる家が帝国を代表する」体制への移行です。

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メルゼブルク Merseburg -5- に続きます

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