- 2025-9-29
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メクレンブルク=フォアポメルン州のレーナ Rehna をご紹介します。
場所はシュヴェリーン・ヴィスマール・リューベックという当時の大都市に囲まれた三角形の中にあります。前回ご紹介した Gadebuschからは北北東に約 10km、歩いても行ける距離です。まあ、歩きませんが(笑)非知名度は★★★でいいでしょう。
Wappen | Lage | Data |
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独語 Wikipedia
自治体の公式サイト
メクレンブルグ=フォアポメルン州の案内サイト
Liste der Baudenkmale in Rehna
歴史:中世
レーナは、12世紀半ばに、ヘッセン州レーナ出身の入植者たちによって設立されました。レーナの最初の教会は、1230年にラッツェブルク什分の一税台帳にすでに記載されており、この台帳には、当時ラッツェブルク司教区に属していた村々が教区ごとに分類されて記載されていました。1237年12月26日、ラッツェブルク司教ルドルフ1世は、新しいレーナ修道院を正式に承認しました。しかし、レーナは司教区、そして後にラッツェブルク公国(メクレンブルク=シュトレーリッツ)に属したことは一度もありませんでした。むしろ、メクレンブルク地方のメクレンブルク郡に属する田舎町でした。レーナは、他のメクレンブルクの都市と同様、1918年まで州議会に代表を送っていました。その代表は、2つの州議会のうちの1つでした。その名称にもかかわらず、州議会は都市のみを代表しており、農村部の住民は代表していませんでした。
レーヴィッツ地区は、1230年頃に Lovetseおよび Lowitzeという名称で初めて言及されました。Lovetze城の遺跡は、今でも敷地内の公園に残っています。
近世
1595年から 1684年の間に、少なくとも20人(女性18人、男性2人)が魔女裁判にかけられ、そのうち11人が処刑されたと思われます。1668年、元市長ヒンリッヒ・クリンクの未亡人イルゼ・クリンクが火刑に処されました。彼女は、何度も拷問を受けた後にようやく自白を強いられたのです。彼女が自白を撤回すると、再び拷問を受けました。
宗教改革の導入と修道院の解散後、レーナはメクレンブルク公爵の未亡人と扶養されていない娘たちの終身年金(Leibgedinge)の所在地となり、行政官の座も置かれました。1734年から1768年まで、レーナ行政区はハノーファー選帝侯領の抵当財産でした。1791年、この町は都市権を取得しました。
1952年から1994年まで、レーナはガデブッシュ郡(1990年まで東ドイツシュヴェリーン地区、1990年から 1994年までメクレンブルク・フォアポンメルン州)に属していました。1994年のメクレンブルク=フォアポンメルン州郡改革以降、この町は北西メクレンブルク郡に属しています。
1991年から 2005年にかけて、都市開発促進の一環として、町の中心部と修道院の建物が改修され、そのために約 900万ユーロの助成金が承認されました。町の改修は、ほぼ完了しています。(独語 Wikipedia)
以上が独語 Wikipediaに記述されている「歴史」の部分です。短い記述ですがこの中に第二次世界大戦に関する記述が無いということは、破壊を免れたということでしょう。
実際、旧東独の町はソ連赤軍がベルリンを目指して進軍したので東部の町は手酷く破壊され、また西部でも軍事施設や産業があったところは爆撃されましたが、そうでないところは案外戦災を免れています。しかしその後の東独の社会主義経済運営の破綻で荒廃した都市が多いのが残念です。まあ、ここはそれでもましな方かもしれません。