誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(102)ポツダム Potsdam -7-

ポツダム Potsdam -6-からの続きです

ポツダムと言えば外すわけにはいかない建築モニュメント、一つ目は「サンスーシ宮殿」です。

町の西方に広がる広大なサンスーシ公園の中にいくつかの宮殿や付属の建物が建っています。入口から、一番奥の新宮殿(までは 1.5kmもあり真面目に見て歩けば丸々一日は楽しめます。

サンスーシ宮殿 Schloss Sanssouciに関しては数多くのガイドや情報サイトがあるので、独語 Wikipediaの冒頭のみ訳しておきます。日本語 Wikipediaはこちら。「プロイセンの城と庭園」のサイトもぜひ!

サンスーシ宮殿(フランス語 sans souci「心配事のない」から)は、プロイセン王の旧夏の離宮で、ポツダムのサンスーシ公園内にあります。この一棟の建物は、1745年から1747年にかけて、フリードリヒ大王により、ゲオルク・ヴェンツェスラウス・フォン・クノーベルスドルフがロココ様式で建設したものです。特に注目すべきは、コンサートホール城の図書館大理石の間です。ポツダムとベルリンの城と公園の一部として、「プロイセンのヴェルサイユ」は1990年にユネスコの世界遺産に登録されました。

この建物の向こう側に風車がありますが、これには「この宮殿の庭園の西に、大きな風車小屋が建っている。サンスーシ宮殿完成後、景観にまともに入る位置だったため、フリードリヒ2世が取り壊しを命じた。しかし所有していた農夫から生活を奪わないでほしいと訴えられ、王はこの風車小屋をそのまま残したという。現在もこの逸話のためか、堂々とその風車小屋は建っている」というエピソードがあります。

オランジェリー・・・オレンジなど温暖な気候で育つ樹木などを育てた建物で、欧州の宮殿にはよく見られるものです。

この日は日差しが強くなかなかいい写真が撮れませんが、一番奥にある新宮殿 Neues Schlossです。ここまで辿り着くのは結構大変でしたが、ここからまた 1.5kmの道のりを戻ることになります。お~いぇ~(笑)

ポツダムと言えば外すわけにはいかない建築モニュメント、もう一つは「ツェツィーリエンホーフ Cecilenhof」です。

ツェツィリーエンホーフ城は、建築家ポール・シュルツェ=ナウムブルクの設計により、1913年から1917年にかけて、英国チューダー様式で建設されました。ポツダムの新庭園の北部に位置し、ユングフェルン湖の湖岸からほど近い場所にあります。ホーエンツォレルン家による最後の城の建設は、皇帝ヴィルヘルム2世が、息子の皇太子ヴィルヘルムとその妻、メクレンブルク=シュヴェリーン家のセシリーの住居として行ったものです。

ツェツィリーエンホーフは、1945年7月17日から 8月2日まで開催されたポツダム会議の会場として世界的に有名になりました。それ以来、名誉の庭の芝生には、赤い花でできた五芒星のソ連の星が飾られており、その最初の植栽は庭園監督ポール・モルスケ(1875年~1947年)によって行われました。(上の写真)

1912年、カイザー・ヴィルヘルム2世は、新庭園に新しい宮殿を建設するための資金を拠出するよう命じました。それ以前にも、彼はさまざまな宮殿建設プロジェクトを実現していました。フランス国境にあるホーコンキングスブルク城(1901年~1908年)の修復、マリエンブルク城(1896年~1918年)の改修、そしてそれをモデルにデンマーク国境近くにあるミュルヴィーク海軍学校 (1907年~1910年)の建設、そしてポズナン宮殿(1905年~1913年)の新築など、さまざまな宮殿プロジェクトを実現させていました。ホーエンツォレルン家省は、1904年にポール・シュルツェ=ナウムブルクが共同設立したザールエッカー工房と、セシリーエンホーフ宮殿の建設契約を締結しました。契約では、建設費は149万8000マルク、完成は1915年10月1日と定められていました。1913年5月、皇太子ヴィルヘルムは、完成後に自身の住居となるこの宮殿の礎石を敷きました。

設計と監督を担当した建築家ポール・シュルツェ=ナウムブルクは、皇太子夫妻の希望に応じて、皇太子妃セシリーの両親が所有する狩猟用城館ゲルベンザンデのコテージ様式に触発された、英国風カントリーハウス風の建物を設計しました。レンガとダークオークの枠組みが、外観のファサードを特徴づけています。チューダー様式の煙突は、それぞれが異なるデザインで、非常に珍しいものです。建物の各部分は、5つの中庭、すなわち中央にある大きな名誉の中庭、小さな庭園(プリンツェンガルテン)、そして3つの作業用の中庭を囲むように配置されています。

第一次世界大戦勃発により建設工事が中断されたため、完成予定日は遅れました。1917年8月になってようやく、皇太子妃セシリーは完成した部屋に移り住み、9月には6人目の子供、セシリー王女を出産しました。1917年10月1日、城の建設はついに完了しました。

1918年に皇帝が退位した後、ヴィルヘルムとセシリーは1926年に国からこの城を私有財産として返還されました。

1945年に逃亡するまで、皇太子夫妻はセシリーエンホーフに住んでいました。1945年9月、ソ連占領軍はホーエンツォレルン家に補償金なしで財産を没収しました。このことで、1990年以降、公的機関とホーエンツォレルン家との間で、没収の合法性や範囲、それに伴う返還や使用権に関する要求について争いが生じました。

2019年には、この争いはセシリーエンホーフにも拡大しました。2023年3月、ホーエンツォレルン家はすべての要求と主張を取り下げました。

Kronprinzessin Cecilie von Preußen, Namensgeberin des Schlosses

なおポツダム会談ポツダム宣言に関しては長くなるのでリンクをご参照ください。

ポツダム Potsdam -8- に続きます

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