欧州放浪の総括(2)どこに行きたかったのか?何故そこに行きたかったのか?

欧州放浪の総括(1)旅程の構造と設計からの続きです

前回は「3つの展示会をカバーするために6週間を通しで滞在」「展示会の日程は決まっているので、そこの周辺のホテルを決めて」「その隙間時間は『やりたかったことは全部やろう、気になっていた場所には全部行こう!』と決めた」話を書きました。隙間時間の方が圧倒的に長いのですが(笑)

INTERPACKと FESPAの間が 14泊、FESPAと ITMAの間が 14泊・・・これって隙間時間って言わないですかね、フツーは(笑)でも、逆にこの 28泊で『やりたかったことは全部やろう、気になっていた場所には全部行こう!』には十分なんでしょうか?かつて、私はそれをやるために EUのビザの限界=6ヵ月ほどドイツに滞在しようかなと考えていたこともあります。それが、たったの 28日で達成できるのか?

2.どこに行きたかったのか?何故そこに行きたかったのか?

レベルの低い方(?)から書きますと「1.誰も知らないような小さな町を、出来るだけ沢山訪問してみたい」「2.煉瓦造りのゴシック建築(Backsteingotik、Backsteinbau)の教会やかつての都市城門を出来るだけ沢山見てみたい」「3.(その延長で)駐在時代の隣人がドイツ敗戦によって追放されてきた故郷『東プロイセン(Ostpreussen:今日のポーランドとロシア領)』の町を訪問したい」・・・というものです。3.などは30年以上温めていた構想なのです。

あえて追加すれば、駐在時代の同僚や知人には出来るだけ沢山会っておきたい・・・彼らの多くは 80歳を超えており、いつ鬼籍に入ってもおかしくはないし、自分だってそろそろ他人ごとではないわけですから(笑)

また前回書きましたが、ミラノにはウィーンから夜行寝台列車で行くことが確定しているわけですが、ウィーンで見たいものは王宮や音楽関連ではなく、Rotes Wien(赤いウィーン)と呼ばれた戦前の社会主義政権時代に盛んに建てられた「労働者向け集合住宅」なのです。ドイツではワイマール共和政時代に対応する時期です。

またウィーンにはプラハから鉄道で4時間ほどなので、プラハも決まりです。ここでは以前に皆様にもカンパご協力をお願いした、ウクライナからの避難民の世話をしている旧友に会おうと思った次第です。ここも今更典型的な観光名所巡りではなく、地元の彼の行きつけのビアホールなどが行ってみたいところでした。

で、プラハにはベルリンから4時間くらいなので、プラハの前はベルリンかな・・・と、段々構想がはっきりしてきます。でもこの段階ではまだこのあたりのホテル予約はしません。まあ、ホテルは潤沢にありそうなので、あまり早めに決めてしまうと自由度を失うことになるからです。

煉瓦造りのゴシック建築(Backsteingotik、Backsteinbau)

Backsteingotikの建築物の多くは旧東独に分布していますが、東西の壁があった時は、西独のリューベックや住んでいたリューネブルクの教会くらいしか訪問できなかったので、関連の書籍や写真集を買って眺めては憧れを募らせていました。

1990年に東西ドイツ国境が撤廃され、自由に東独をドライブ出来るようになってからは、いろいろな町とそこの Backsteingotikbauを見に行きましたが、家族帯同の駐在員の身としては全部を回り切る時間はありません。いくつかの建物は「いずれ機会があれば・・・」と想いを残していたのです。

←← これは Tangermündeという町のラートハウスで、1997年に自分で撮った繊細で装飾的なところが、一般的には無骨なイメージの Backsteinbauとは異質で、いつか再訪したいと思っていました。

←← Grimmenという町のラートハウスの戦前の写真、↓↓ Anklamという町の城門 Steintorですが、いずれも写真集で見て「いつかはここに」と惹かれたものです。

駐在時代の隣人の故郷『東プロイセン(今日のポーランドとロシア領)』

住んでいたリューネブルクは戦中・戦後に旧ドイツ領から追放されてきた人や家族が大勢住んでいました。私の借家があったところは新興住宅街で、全ての通りには Breslauer Str.、Allensteiner Str.、Gleiwitzer Str.など、戦後に失った旧ドイツ領の都市の名前が付けられていました。

上左は戦前(1931年)の地図、上右は戦前・戦後のポーランドの領土の変遷です。戦前のポーランドは青線で囲まれた部分で、戦後はライトブルーの東部を失った見返りに旧ドイツ領の黄色い部分を与えられ、結果として赤で囲まれた部分が現在のポーランドです。(ちなみにポーランドが失ったライトブルーの領土の南部に Lwow(リヴォフ)という地名が見えますが、これは今日のウクライナの Lwiw(リヴィウ)です。このあたりにも歴史のドラマが満載ですが、脱線してしまうのでここでは触れません)

リューネブルクにはドイツが失った黄色の部分の中でも、右の方にある飛び地「東プロイセン」から追放されてきた人が多く、私の借家の大家さんの母親もそんな一人でした。少しアルツハイマー気味だった彼女は、毎週末わが家に遊びに来てはお茶を飲みながら「東プロイセンがいかに美しいところだったか」の想い出語りをするのでした。いつか、このお婆ちゃんの故郷に行ってみなければ・・・

またリューネブルクには「東プロイセン被追放者連盟」という団体もあり、東プロイセン博物館もありました。地元の独日協会との窓口をやっていたご縁で、そういう人達の誕生日に招待されて昔話を聞いたり、博物館に出入りしているうちに、ますます「いつかはここに!」という思いが募ります。実は東西ドイツが統一されてポーランドに行きやすくなってから何度か出かけたことはあります。しかし、やはり家族帯同の駐在員の身、極めるまでには至りません。

Von Jerzy Strzelecki – Eigenes Werk, CC BY-SA 3.0, ソースはこちら

極めつけはこの建物です。Marienwerder(ポーランドの地名では Kwidzyn)のドイツ十字騎士団の城ですが、博物館で見た写真で、この建物の構造美に目と心を奪われました。他にも、油絵で厳しい冬の雪のシーンを描いたものもあり・・・ここにはいつか必ず行くぞ!と思ったものです。思えば30年越しの夢だったのです。また、このあたりはご覧のような Backsteingotik 煉瓦造りのゴシックの宝庫なのです。それもあって目的地と定めたのです。

しかし・・・言葉や事情がよくわかっているドイツとは違って、これまで何度も行ったことはあるとはいえ、ポーランドの治安状況・コロナ状況・鉄道運行状況はあまりちゃんと掴めてはおらず、本当に行くか行かないかはドイツに行って暫くしてから決めることにしました。

次回はそのあたりを含め、どこに行くか、ホテルの予約などを走りながらどのように進めていったか・・・「3.予約の実際」について書きます。

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