誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(108)★★★ ツァイツ Zeitz -6-

ツァイツ Zeitz -5- からの続きです

さてこのあたりでかつては司教座の有った3つの都市の関係について整理しておきます。お互い数十キロずつほどしか離れていない3つの都市には異なった運命が待っていたようです。

Aerial image of Schloss Moritzburg, Zeitz (view from the southwest)

これは前章の「廃墟が並ぶ残念な通り(Rahnestraße)の突き当りにある「モーリッツブルク城Schloss Moritzburg」です。こういう角度ではなかなか写真が撮れないので Wikipediaなどから借用しておきます。この中庭にかつて司教座があった Dom St. Peter und Paul in Zeitzがあります。

モーリッツブルク城は、ザクセン=アンハルト州のブルゲンラント郡、エルスター川沿いのツァイツにある要塞化されたである。王宮と要塞化された司教座を起源とし、17世紀に現在のバロック様式の城が築かれた。城の敷地内にはツァイツ大聖堂もある。

ザクセン=アンハルト州南部のツァイツにある聖ペテロ・パウロ大聖堂は、968年から1029年までツァイツ教区の司教たちの大聖堂であり、教区本拠がナウムブルクに移転した後は修道院教会となった。現在、この大聖堂は同市のカトリック教区教会として機能しており、ロマネスク街道の立ち寄りスポットの一つとなっている。

ツァイツ・ナウムブルク・メルゼブルクはいずれも司教座都市であった(ある)と理解していますが、至近距離にあるその三者について関係を教えてください。

ナウムブルク、メルゼブルク、ツァイツの大聖堂(ドーム)は、ドイツのザクセン=アンハルト州にある歴史的に深く結びついた3つの重要な聖堂です。これらは共同で「連合大聖堂財団(Vereinigte Domstifter)」によって管理されており、観光ルート「ロマネスク街道」のハイライトとなっています。

1028年に司教座がツァイツからナウムブルクへ移された歴史があり、3つの街は今も強い絆で結ばれています。

3つの大聖堂の概要

    • ナウムブルク大聖堂(聖ペテロ・聖パウロ大聖堂):2018年に世界文化遺産に登録。名もなき天才「ナウムブルクの巨匠」が西内陣に制作した12体の寄進者像で世界的に有名です。特に「ウタ・フォン・バレンシュテット」の彫像は「中世で最も美しい女性」と称されています。内陣と身廊を隔てる2つの「障壁(レットナー)」が完全な形で残っているのも極めて稀です。
    • メルゼブルク大聖堂(聖ヨハネス・聖ラウレンティウス大聖堂):1015年に歴史家でもある司教ティートマールによって基礎が築かれた、皇帝ゆかりの大聖堂。キリスト教化前のドイツ語で書かれた唯一の呪文「メルゼブルクの呪文」の写本を所蔵しています。また、巨匠フリードリヒ・ラーデガストが手掛けた、ドイツ最大級のロマン派パイプオルガンもあります。
    • ツァイツ大聖堂(聖ペテロ・聖パウロ大聖堂):美しく広大なバロック様式の城「モリッツブルク城」の敷地内に組み込まれています。10〜11世紀に造られた地下聖堂(クリプタ)は、中部ドイツで最も古いものの一つです。地下にはザクセン=ツァイツ公爵家の美しい一族の墓所(地下聖堂)も存在します。

1028年に司教座がツァイツからナウムブルクへ移された歴史があり・・・とのことですが、何故移されたのでしょうか?

1028年に司教座(教区の中心地)がツァイツからナウムブルクへ移転した背景には、「軍事的な安全確保」という表向きの理由と、「地元の有力貴族の権力拡大」という政治的な思惑が絡み合っていました。

主な理由は以下の3点です。

1. 外敵(ボヘミア族・スラヴ族)からの防衛

当時、ツァイツはスラヴ諸族との国境地帯に位置しており、ボヘミア族などからの度重なる襲撃や略奪にさらされていました。公式な建前(教皇の認可文書など)としては、「より安全で堅固な防衛拠点に司教座を移すため」と説明されています。

2. エッケハルト家(有力貴族)の権力欲

移転の最大の推進力となったのが、マイセン辺境伯の兄弟であるヘルマンとエッケハルト2世(エッケハルト家)です。彼らは自分たちの権力基盤であるナウムブルクの街をさらに発展させ、教会に対する支配力や政治的影響力を強めたいと考えていました。

3. 私有財産の寄進と国家の利害

この辺境伯兄弟には子供がいなかったため、自分たちの城や広大な領地をすべて教会へ寄進し、ここに新たな司教座を誘致しました。当時の神聖ローマ皇帝コンラート2世や教皇ヨハネス19世にとっても、防衛に有利で、かつ重要な交易路(ヴィア・レギアなど)に近いナウムブルクに強固な司教都市を作ることは、国家の統治において非常に好都合だったのです。

その後のツァイツとの確執

この移転は、完全にナウムブルク側の都合で進められたため、利権と権威を奪われたツァイツ側は猛反発しました。その後、どちらが格上かを巡る宗教的な争いは約200年間も続き、1230年にようやく「司教の選出権はナウムブルクが持つが、ツァイツにも一定の地位を認める」という妥協案で和解しました。さらに13世紀後半になると、司教たちは実質的な居城(レジデンス)を再びツァイツの城へと戻しています。

現在、この3つの大聖堂が同じ財団でまとめて管理されているのは、中世の激しい権力闘争を経て、最終的に「ナウムブルク=ツァイツ司教区」として一つの歴史を歩むことになったからだと言えます。

私がここにたどり着いたのは 18:30ということで日も落ちて、博物館も締まっており観光客も一人もいない・・・という状況からちょっと寂しく見えます。まあそのあたりは割り引いて考える必要はありそうですが、それにしても観光客で賑わう Naumburgと比べるとやはりかなり寂しく見えます。

ツァイツ Zeitz -7- に続きます

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