- 2025-9-27
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★★★ガーデブッシュ Gadebusch -3- からの続きです
いい感じのレストランがありますが、ここではドイツの戦後史にちょっとした爪痕を残すある協定が結ばれた場所なんです。住民にとっては大きな運命の分かれ目でした。
上の地図はクリックすると拡大しますが、西から来た英国軍は青で囲まれたあたりを占領しており、東から来たソ連赤軍は赤で囲まれたあたりを占領していました。が、青の部分の村は湖を囲むように存在しており、そこを維持するための物資の移動が面倒だったのでしょうね。そこで英国軍とソ連赤軍の占領地区司令官の間で占領地交換に合意したというようなことらしいです。
赤の地域は当然その後西ドイツとなりハンブルクから普通にアクセスできたので、私も国境の写真を撮りによく出かけたものです。ここの住民はラッキーだったでしょうね!
「11月27日までに避難は完了しなければならない」―
1945年のバーバー・リャシュチェンコ協定
アンケ・ミュールンベルク博士(郡立博物館館長)による講演
2022年11月3日(木)19時、郡立博物館ロココホール
「歴史的な木曜日」イベントシリーズの一環として、博物館館長アンケ・ミュールンベルク博士が、戦後直後の歴史の一部について取り上げます。第二次世界大戦終結後のいわゆる境界線の位置は、ラウエンブルク公国および隣接するメクレンブルク地方において、特定の地域へのアクセスや物資の供給に困難をもたらしました。
1945年夏に数回の交渉を経て、1945年11月13日正午、ガデブッシュのレストラン「Goldener Löwe」で、英国ライン軍代表のコリン・ミューア・バーバー少将と、赤軍最高司令部代表のニコライ・グリゴリエヴィチ・リャシェンコ少将が、メクレンブルク地方の Ziethen, Mechow, Bäk und Römnitz とラウエンブルク地方の Lassahn, Techin, Hakendorf, Klein Thurow und Dechow sowie die Güter Groß Thurow, Bernstorff, Stintenburger Hütte und Stintenburg の土地を交換する契約に署名しました。
この協定は、バーバー・リャシュチェンコ協定(Barber-Lyaschenko-Abkommen)、あるいはガデブッシュ条約として知られるようになりました。この協定の経緯と、短期間のうちに留まるか去るかを決断しなければならなかった住民たちへの影響について、アンケ・ミュールンベルク博士が 2022年11月3日(木)19時から、郡立博物館のロココホールで講演を行います。講演は、この行動の経緯を詳細に記した郡公文書館の資料、郡博物館の所蔵写真、収集された当時の人々の証言に基づいて行われます。入場は無料です。
Zum Schwedenkönig…「スエーデンの王様」という名のホテル・レストランです
この辺りは 1712年にガーデブッシュの戦いがあった場所です。敢えて例えれば日本において中国軍と日本(地方連合)軍とインドネシア・フィリピン軍が戦ったようなものです(流石に無理はありますが(笑))その際の中国の王様の名前を冠したホテル・・・という感じです。日本ならこういうことは考え難いのですが、旧東独の北部は三十年戦争のあと暫くはスエーデン領だったこともあり、その時の名残が結構残っています。
ガデブッシュの戦い(ヴァケンシュテットの戦いとも呼ばれる)では、1712年12月20日、西メクレンブルク州ガデブッシュ近郊で、スウェーデン軍がデンマーク軍およびザクセン軍連合軍に勝利しました。この戦いは大北方戦争の一環でした。
スウェーデン軍最高司令官マグヌス・ステンボックは、シュトラールズントの南に駐屯していたロシア・ザクセン軍と、ハンブルクに集結していたデンマーク軍との間に陣取り、同盟軍の合流を阻止しました。調整上の問題により、特にロシア軍の砲兵の進軍が遅れたため、ガデブッシュの戦いではこの砲兵は使用されず、ステンボックはデンマーク・ザクセン軍に勝利を収めることができました。これは同時に、大北方戦争におけるスウェーデン軍最後の大きな勝利となりました。
★★★ガーデブッシュ Gadebusch -5- に続きます