誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(111)★★★ メルン Mölln -3-

★★★ メルン Mölln -2- からの続きです

St.Nikolaiの写真はこちらからでは全体が取れないので少し離れたところからの写真を再掲しておきます。これでもラートハウスの向こうに一部が見えるだけですが(笑)

ドイツのメルン(Mölln)にある聖ニコライ教会(St. Nicolai Kirche)の南西の壁に設置されている歴史的な記念碑(ブロンズ製のレリーフ碑)です。

この碑は、ナチス政権下で信仰を守り抜いた若者たちの勇敢な歴史を伝えています。碑文の翻訳と意味プレートに刻まれたドイツ語のテキストは以下の通りです。

    • 原文:PALMSONNTAG 20. MÄRZ 1937WIR ERINNERN UNS DER 163 JUGENDLICHEN AUS LÜBECK DIE AUS NOT UND UNTERDRÜCKUNG DES GLAUBENS HIER IN ST. NICOLAI KONFIRMIERT WURDEN
    • 日本語訳:1937年3月20日 枝の主日(パルムゾンターク)私たちは、信仰への苦難と弾圧の中から、ここ聖ニコライ教会で堅信礼(コンフィルマツィオン)を受けたリューベック出身の163人の若者たちを記憶します。

歴史的背景(メルンの緊急堅信礼):このレリーフは、1937年に起きた「メルンの緊急堅信礼(Möllner Notkonfirmation)」と呼ばれる出来事を記念して、2007年に彫刻家アクセル・デェーラー(Axel Döhler)によって制作されました。ナチスによる教会の統制: 当時、隣町のリューベックでは、ナチス政権の思想に順応した「国家の息がかかったキリスト教徒(ドイツ・クリスチャン)」の制服を着たナチス派牧師が教会を支配し始めていました。若者たちの抵抗: 伝統的なキリスト教の信仰を守ろうとした「告白教会(反ナチス派のキリスト教徒)」の親や子どもたちは、ナチス派の牧師から堅信礼(キリスト教徒として成人を迎える重要な儀式)を受けることを拒否しました。

秘密の特別列車: 1937年3月20日の夕方、リューベックの親達と163人の若者、約1000人の支持者が秘密裏に特別列車に乗り込み、ナチスの影響が比較的及んでいなかったメルンの聖ニコライ教会へと向かいました。彼らはそこで無事に正統な堅信礼を受けることができたのです。極権的な独裁政権下において、自らの信仰と良心を守るために危険を冒した若者たちの抵抗のシンボルとして、この聖ニコライ教会に今も掲げられています。

✙✙ 長くなるので折りたたんでいます。展開するにはここをクリック下さい
1. 告白教会(Bekennende Kirche)の運動:良心と信仰の抵抗

ナチス・ドイツ時代、プロテスタント教会の多くはヒトラー政権の圧力に屈するか、政権を積極的に支持するナチス派の「ドイツ・クリスチャン(Deutsche Christen)」に統合されていきました。これに対し、「教会の主はヒトラーではなくイエス・キリストである」として真っ向から異を唱えたキリスト教徒たちのネットワークが告白教会です。

    • バルメン宣言(1.1.4, 1.1.5): 1934年、著名な神学者カール・バルトらが中心となり、ナチスの全体主義を拒絶する「バルメン宣言」を採択しました。これが運動の精神的支柱となりました。
    • 著名な指導者たち: ヒトラー暗殺計画に加わり刑死したディートリヒ・ボンヘッファーや、戦後「ナチスが共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった…」という有名な詩を残したマルティン・ニーメラー牧師がこの運動を牽引しました。
    • メルンでの意義: リューベックのナチス派教会から排除された若者たちを、メルンの聖ニコライ教会が受け入れて堅信礼を行ったのは、まさにこの「告白教会」の精神に基づく、命がけの不服従運動(抵抗運動)だったのです。

2. ディートリヒ・ボンヘッファー(Dietrich Bonhoeffer)の神学と抵抗

メルンのレリーフに深く関わる「告白教会」の精神的中心であり、ナチス抵抗運動の最も象徴的な人物が、若き天才神学者ディートリヒ・ボンヘッファーです。彼の抵抗は、単なる政治的抗議ではなく、キリスト者としての深い信仰と良心から生まれたものでした。

    • ① アーリア人条項への反対と「地下神学校」
    • 1933年にナチスが権力を握ると、教会に対してもユダヤ系キリスト教徒を排除する「アーリア人条項」を適用しようとしました。これに対し、ボンヘッファーはいち早く反発し、「もし国家が不当に権利を行使するなら、教会の役割は国家の暴走という『車輪のスポークに棒を突き刺す』ことだ」と主張しました。その後、政府から公での教授職や発言を禁止された彼は、告白教会の「地下神学校(フィンケンヴァルデ)」で若き牧師たちを秘密裏に育成しました。
    • ② 亡命の拒否と「二重スパイ」としての抵抗
    • ゲシュタポ(ナチスの秘密警察)の監視が強まった1939年、友人たちの手配で彼はアメリカへ亡命します。しかし、「この苦難の時代をドイツの同胞と共に過ごさなければ、戦後のドイツ再建に加わる権利は私にはない」と、わずか数週間で大戦直前のドイツへ戻る決断をしました。帰国後、彼はドイツ国防軍の反ヒトラー派情報部(アプヴェーア)の将校たち(ハンス・オスター将軍ら)と合流します。エキュメニカル(教会合同)運動の海外人脈を持っていたボンヘッファーは、「和平交渉の打診」という密命を帯びて海外を飛び回る「二重スパイ」としてヒトラー政権打倒のクーデター計画に加担しました。
    • ③ 逮捕、そして伝説の「獄中書簡」
    • 1943年4月、クーデター計画の露見に先立ち、別件のユダヤ人逃亡支援の容疑で逮捕されます。ベルリンのテーゲル刑務所に拘留されている間、彼は婚約者マリアや親友に多くの手紙を送り続けました。この中で語られた、現代社会における新しい教会のあり方(「非宗教的キリスト教」)の思想は、のちに『獄中書簡』として出版され、20世紀のキリスト教神学に決定的な影響を与えました。
    • ④ 処刑と殉教
    • 1944年7月20日、シュタウフェンベルク大佐らによる「ヒトラー暗殺未遂事件(ワルキューレ作戦)」が決行されますが失敗に終わります。その後の捜査で、ボンヘッファーが深くクーデター計画に関わっていた証拠がゲシュタポに発見されてしまいました。終戦のわずか数週間前、1945年4月9日の早朝、彼はフロッセンビュルグ強制収容所で絞首刑に処されました。39歳という若さでした。彼は刑場へ向かう直前、同房のイギリス人捕虜に「これが最後です。しかし私にとっては、命の始まりです」という最期の言葉を残したと伝えられています。

メルンの若者たちがナチスの順応要求を拒んで特別列車に乗り込んだ背景には、こうしたボンヘッファーらが命をかけて示した「不義の国家権力には従わない」という強固な精神(告白教会の信仰)が、しっかりと流れていたのです。

★★★ メルン Mölln -4- に続きます

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