誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(106)★★ ナウムブルク Naumburg (Saale) -1-

ザクセン=アンハルト州のナウムブルク Naumburgをご紹介します。訪問したのは 2024年 5月 23日です。

この町も私にとっては再訪となります。結構田舎町を訪問してるんですよ(笑)以前 1992年に来た際には前章でご紹介したメルゼブルクから車でやってきて、かつ夕方だったので町をちょっとだけ歩いて食事をして翌日大聖堂を外から見てオワリ・・・行ったというアリバイ作りだけでした(笑)やはり自分の足でちゃんと歩かないといけませんね。結局こうやってちゃんと町の感触を確かめたくなるんです(笑)

非知名度では★★でしょうかねえ・・・大方の日本人はご存じないかもとは思いますが、大聖堂はそれなりに有名です。メルゼブルクより少しは知られているかも?という推測と期待を込めて★★としておきます。

Wappen Lage Data

独語 Wikipedia
Naumburg の公式サイト
Liste der Kulturdenkmale in Naumburg
Liste der Bodendenkmale in Naumburg

場所は前章でご紹介したメルゼブルクから電車で 22分、直線距離にして約 25kmという至近にあります。この辺り・・・ハレ(Halle)から 30km県内には、ルターの生誕地・死没地のアイスレーベン(Lutherstadt Eisleben1)や戦災をほとんど受けず中世の街並みの面影を色濃く残すデーリッチ(Deliztsch)他の魅力的な町が固まって存在しています。メルゼブルクとナウムブルクの間にも 1656年から 1746年まで存在した公国 Herzogtums Sachsen-Weißenfelsの首都がおかれた Weißenfelsがあります。ここも次章でご紹介します。しかし・・・前章のメルゼブルクにも、そこから 25kmしか離れていないここナウムブルクにも「司教座(Bistum)が置かれたわけですが、そんなに隣接していていいものなのでしょうか?ChatGPTに訊いてみました。

ナウムブルク――征服の後に築かれた「統治の大聖堂」

ザクセン=アンハルト州の小都市ナウムブルク。その大聖堂(Naumburger Dom)は、ゴシック美術の傑作として語られることが多い。しかし、この建築の本質は単なる宗教芸術ではない。むしろそれは、神聖ローマ帝国が東方世界をいかに「支配」しようとしたかを物語る、政治的記念碑なのである。

ナウムブルクは11世紀、ザーレ川流域の交易拠点として発展した。だがその成立背景には、東方植民とスラヴ地域への帝国的進出がある。近隣のメルゼブルクが軍事的前線基地としての司教区だったのに対し、ナウムブルクは征服後の統治を安定化させるための拠点として整備された。30キロ圏内に二つの司教座都市が存在するのは、宗教的需要のためではなく、帝国が辺境を重層的に統治する戦略の表れであった。

その性格は大聖堂内部に凝縮されている。西合唱廊に並ぶ「シュティフター像(創設者像)」は、中世彫刻としては異例の写実性を持つ。ウタやエッケハルトら世俗貴族の像は、単なる信仰の象徴ではない。彼らはこの地を支配し、教会と協働して秩序を築いた権力者たちである。つまりこの聖堂は、神の栄光を称えると同時に、世俗権力と教会権力の協調を可視化する空間なのだ。

メルゼブルクが「征服の司教区」だとすれば、ナウムブルクは「統治の司教区」である。そこでは武力ではなく、制度と象徴が支配を支えた。芸術的完成度の高さは偶然ではない。文化的威信こそが、辺境を帝国の秩序へと組み込むための装置だったのである。

近代国家の成立とともに、この教会都市モデルは機能を失った。領域主権国家は、司教区ではなく官僚機構によって空間を支配するようになる。しかしナウムブルクは、その転換以前の統治の形を今に伝えている。そこに立つとき、私たちは単に美しい中世建築を見ているのではない。帝国が辺境をどう統治しようとしたのか、その思想を目撃しているのである。

また近接司教区は中央ヨーロッパでは普通:比較例として:

● マインツ–ヴォルムス–シュパイヤー
● ブランデンブルク–ハーフェルベルク
● グニェズノ–ポズナン

などが挙げられています

ナウムブルク Naumburg -2- に続きます

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