誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(114)★★★ ヴィスマール Wismar -2-

★★★ ヴィスマール Wismar -1- に続きます

この町にも何度か来たことがあります。地図をご覧いただくとわかりますが、Fernverkehr(遠方へのアクセス交通)の道路は東西や南に通じており、町に入って適当な場所にクルマを停めて街歩きする際は必然的に西や南からマルクトなどに向かってアプローチすることになります。

今回は町の北東にある駅からのアプローチとなるので、これまで来たことのなかった方角から町を感じることができます。へえ、こうなっていたのか、この町は・・・と新鮮な感じがするのです。

南からマルクトにアプローチすると、そこのレストランで魚料理を食したり広場の感じを楽しんだりしてそこから奥にはなかなかいかない=この先に何が広がっているのかわからないワケです。今回はその先の限界からマルクトに向かって歩くのでこれまで知らなかった部分を埋めた気分になるのです。意外と大きくは無いんだね・・・とか・・・

白くて立派な方が旧駅舎です

ヴィスマール駅は、エルスターヴェルダ発の地域急行RE 8号線と、テッシン発の地域鉄道RB 11号線の終着駅である。1998年までは、2003年に廃止されたカロウからの路線の終着駅でもあった。2001年までは長距離列車もここを運行していた。駅舎および駅構内のその他の建物は文化財に指定されている。

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歴史

シュヴェリーンからヴィスマールへの路線が建設された後、その終点に駅が必要となった。旧市街の北側に選ばれたこの場所は、ヴィスマール港へのアクセスに恵まれていた。1847年末には、資材や枕木を保管するための2つの倉庫やシアン化処理施設など、最初の建物が建設された。その後、機関車庫、車両庫、備品庫に加え、コークス倉庫やコークス炉が建設された。計画されていた駅舎の建設費は、約28,500 ターラーと見積もられた。

1848年に鉄道が開通した際、機関車庫はすでに完成しており、 さらに家畜用スロープと大きなターンテーブルも設置されていた。1857年まで、貨車庫は待合室および貨物倉庫として利用されていた。駅前広場があり、リンデン庭園から港まで続く遊歩道もあった。駅の隣には駅ホテルがあった。バーンホフ通りは、城壁の取り壊し(1870年頃)後に整備され、1881年にその名称が付けられた。1884年から1894年にかけて、鉄道施設が拡張され、駅舎も増築された。1896年の計画によれば、駅前広場には馬車、自家用車、およびバス用の駐車スペースが設けられることになっていた。

1908年には、歩行者用の地下道が建設された。1935年、ヴィスマール駅の従来の機関車配置所は独立した鉄道車両基地に昇格し、1993年まで稼働していた。

施設

駅舎はホーム線路の南西に位置している。後に貨物線路がさらに建設されたことで、駅舎は孤立した状態となった。これらの線路と市街地の間に小さな前駅舎が建設され、貨物線路の下をくぐるトンネルを通じて本館とつながっていた。2019年の改修後、ホームと駐車場はバリアフリー化された。乗客は現在、アーケード通路を通じてホームにアクセスできる。それ以前、ドイツ鉄道は旧旅客用トンネルを埋め立てていた。さらに、バリアフリーの通路が駅ホームとポーラー通りを結んでいる。

ホーム線路は3本ある。2番線は駅ホームとして屋根付きの側線ホームとなっており、そこから駅舎の南東側にはさらに折り返し線(1番線)が延びている。2番線横には、屋根のない中間ホームがあり、3番線が通っている。ホーム線路の北東側には、港へのアクセス線を含むさらなる線路が敷かれている。その先には旧車両基地があり、最北端には港へのアクセス線路がさらに伸びている。

駅舎、前館、ホームの屋根、貨物倉庫、給水所、およびポエラー通りの機関車庫は、文化財として指定されている。

駅から歩きだすとすぐにニコライ教会(Nikolaikircheあるいは St.Nikolai)に出会います。目の前には運河があり、写真を撮るにも引いて撮る場所が無いので自ずと縦位置のものばかりになります。下の写真は Wikipediaからの拝借したものです。塔の切妻部、南側の凸部の切妻部に特徴的な装飾があります。

Von Foto: Störfix, Lizenz: Creative Commons by-sa 3.0 de, CC BY-SA 3.0 de, ソースはこちら

ニコライ教会(ヴィスマール)

ヴィスマールにあるニコライ教会(聖ニコライ教会とも呼ばれる)は、1381年から1487年にかけて、船乗りや漁師のための教会として建設された。北ヨーロッパにおける後期ゴシック様式の傑作とされている。ニコラウス教会は、ヴィスマールの旧市街の一部として、2002年からユネスコ世界文化遺産に登録されている。現在は市の所有であり(教会税参照:ヴィスマールの教会税は、同市の教会を維持するためにハンザ都市ヴィスマールが管理する信託財産であり、ドイツの国家教会法における特例である)、北ドイツ福音ルーテル教会のメクレンブルク教区、ヴィスマール教区に属する聖ニコラウス教区の教会として機能している。

歴史

この都市の定住史に関する最近の研究結果によれば、グルーベ付近にあった古い商人集落には、すでにニコラウスに捧げられた教会が存在していたと推測されているが、この仮説を裏付ける証拠は存在しない。聖ニコラウス教区は13世紀半ば以前から存在しており、1230年頃の都市創設期に建てられた教会を中心としていたと考えられる。現在の教会堂の建設は1370年頃に始まった。ヴィスマールの市議会は、市長ヨハン・ダルゲツォウを教会理事長として、1381年に建築家ハインリヒ・フォン・ブレーメンに聖歌隊席の完成を委託した。彼は1379年からリューネブルクのミヒャエリス修道院の建築責任者を務めていた。リューネブルク産の成形レンガが多数使用されており、これはレンガの刻印から確認できる。主祭壇の奉献は1403年に行われたことが記録されている。ブレーメンの石工親方は1415年まで教会の建設に携わっていた。

1434年には北側側廊の工事が行われ、1437年には南側側廊の工事が行われた。1459年、現場監督ペーター・シュトルプと建築家ヘルマン・フォン・ミュンスターの下で、実務的な工事が完了し、教会は奉献されるに至った。1485年から1487年にかけて、石工親方のハンス・メルテンスと現場監督ハンス・シュレーダーが塔の上部2階を建設し、塔の尖塔は1508年に設置された。1703年12月8日、異常な暴風により、塔の尖塔が破壊された。その破片が中央身廊の屋根やアーチを突き破り、中世の装飾品を含む多くの内装品が破壊された。その後、塔には横向きの切妻屋根が、中央身廊には平天井が設けられた。内装の修復は18世紀後半まで続いた。1867年になってようやく、再びアーチが再建された。1880年から1881年にかけて、教会の大規模な改修が行われたことが記録されている。中世の様式を参考にした空間構成もこの時期にさかのぼる。同時に、中世の壁画も修復された。東側の屋根塔、いわゆる「シュタイガー塔」は1890年に建設された。第二次世界大戦の空襲による教会の被害は軽微だった。甚大な被害を受けた聖ゲオルゲン教会聖マリア教会から、数多くの内装品がここに新たな居場所を見つけた。ここ数年の包括的な補強工事は、主に屋根(1963年)、支保壁、および上部壁体に対して行われた。

Von Krzysztof Golik – Eigenes Werk, CC BY-SA 4.0, ソースはこちら

Von Krzysztof Golik – Eigenes Werk, CC BY-SA 4.0, ソースはこちら

Von Siegfried von Brilon – Eigenes Werk, CC BY-SA 3.0, ソースはこちら

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