誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(112)★★★ ラッツェブルク Ratzeburg -1-

シュレヴィッヒ=ホルステン州のラッツェブルク Ratzeburgをご紹介します。訪問したのは 2024年 6月 8日です。

場所はリューネブルクから北上してリューベックに至る、かつての「塩の道(Salzstrasse)」上にあり、前章でご紹介したメルン Möllnから 10km弱リューベック寄りに戻った湖の上にあります

この町もハンブルク駐在時代は休日に日本からの出張者を車に乗せて「リューベックを観光案内し、そこから南に下って「Lübeckの ü」の下あたりにある Ratzeburg湖を回り、そこから東西ドイツ国境のフェンスを見せて、その後この Möllnを案内した後更に南下、アウトバーン 24号線に乗ってハンブルクに帰る」というのが定番コースにあるため、もう再訪どころかもう何回来たことか・・・」という町ではあるのです。

とはいえそういう不純な(笑)動機だったため国境のフェンスに直行で車を走らせ、町中をゆっくり観光するということもなく、この町に来たというベンチマークとしてのラートハウスも見たことが無かったので、今回行ってみることにしました。

当時のハンブルク在住者には馴染みのあった町ですが一般には「どこ、それ?」レベルと思われるので★★★としておきます。

Wappen Lage Data

独語 Wikipedia
Ratzeburg の公式サイト
Ratzeburg の観光サイト
Liste der Kulturdenkmale in Ratzeburg
Liste der Bodendenkmale in Ratzeburg

今では知っている人は殆どいないような気もしますが、かつて直木賞を取り 1980年に出版された「元首の謀叛」という小説にがあります。著者は中村正軌氏、当時ハンブルクにあった JALのハンブルク支店長です。

小説の冒頭、東独の工作員 Hans-Joachim Hirschmeier大尉が Ratzeburg湖から西独に潜入してくる・・・そこから物語は始まります。

この小説、Ratzeburg湖や Hamnurgの Berliner Torなどの知っている地名が出てくるので駐在員にはあっという間に広まりましたが、日本人が一人も登場しないという点でもユニークで話題を呼んだものです。その後ドイツ語にも翻訳されてベストセラーに名を連ねることになります。

Geminiによると:『元首の謀叛』(げんしゅのむほん)は、中村正軌(なかむら まさのり)による日本の国際謀略小説(政治サスペンス小説)です。

1980年に文藝春秋から刊行され、第84回直木三十五賞(1980年下半期)を受賞しました。現実のベルリンの壁崩壊(1989年)やドイツ統一(1990年)よりも約10年も前に、緊迫する東西冷戦下のドイツ統一のシナリオを圧倒的なリアリティで描き、高い評価を受けた傑作です。

あらすじの概要:東西ドイツの国境監視塔が突如爆破され、ソ連軍や東ドイツ軍が不穏な動きを始めます。西側諸国が「ソ連による西欧侵攻の準備か」と疑心暗鬼に陥る中、一人の東ドイツ空軍中尉が極秘裏に西ドイツへ潜入します。彼の任務は、東ドイツの最高指導者(書記長)ホーネッカーからの密書を西ドイツ首相へ直接手渡すことでした。ソ連の支配から脱し、東西ドイツの統一を成し遂げるため、東ドイツの元首が企てた驚くべき極秘計画が動き出します

地図はクリックすると拡大します。よく行ったのは Ratzeburgを通り過ぎて星を付けた3つの国境です。とりわけ一番右の場所は東独の監視塔がはっきり見え、時に Bundesgrenzschutz, BGS連邦国境警備隊)や税関の車(税関も国境警備の役割を担っていた)にも遭遇したものです。

更に運が良ければ?監視塔の上の東独兵士と双眼鏡越しに目が合うこともありました。会社の大きなロゴ(U-Bix)を付けた社用車で毎週のように見物にやってくる私は、きっと東独のブラックリストに載っていたに違いありません(笑)

第二次世界大戦の結果、ドイツは「ドイツ連邦共和国」と「ドイツ民主共和国」という、社会体制が全く異なる二つの国家に分断された。数十万人の東ドイツ市民が、共産主義独裁政権から逃れるために西側へ亡命した。東ドイツの人口流出を防ぐため、政権は1961年8月13日、ベルリンに壁を建設し、バルト海からバイエルン州に至るまで、死を招く国境封鎖システムを整備した。写真はラッツェブルク近郊の国境封鎖施設である。

監視塔、電気柵や金属製の金網、管理地帯内の地雷原、自動発砲装置、有刺鉄線、 車両用遮断溝、光障壁、つまずきワイヤー、犬用走行コース、釘の敷かれた地帯、列行路、そして5kmの立入禁止区域からなる、細部に至るまで綿密に練り上げられたシステムが、東ドイツ市民の西側への脱出を阻止するはずだった。この死の境界線を越えようとした1,000人をはるかに超える東ドイツ市民が、脱出の試みの中で命を落とした。写真は、シャール湖のすぐそばにある国境封鎖システムを捉えたものである。

ドイツの分断により、郡庁所在地であるラッツェブルクは、メクレンブルク州にあった本来の背後地を失い、ドイツ国内の国境に直に面する位置となった。シュヴェリーン方面へ向かう連邦道路208号線は、ムスティン付近で国境封鎖施設によって完全に封鎖されていた。道路の中央には、東ドイツの国境警備隊が監視用バンカーを建設していた。左側には東ドイツの境界杭が見える。当時の連邦国境警備隊による「停止――ここが国境」という案内板が、正確な国境線を示している。

1989年11月9日の夜遅く、ベルリンで全く予期せぬ形でベルリンの壁が崩壊した。その3日後の1989年11月12日13時、ラッツェブルクの門前、ムスティン近くの連邦道208号線沿いにある国境検問所が開かれた。国境開放が間近であるという知らせは、ラウエンブルク公国地区で瞬く間に広まった。何千人もの人々が、東ドイツからの同胞たちを言葉では言い表せないほどの熱狂をもって迎えた。この出来事を目撃した者は、生涯決して忘れることはないだろう。

国境開放直後、ラッツェブルクでは交通が混乱した。数多くのトラビから立ち上る2ストロークエンジンの刺激的な排気ガスの臭いが、煙霧のように街を覆っていたが、これほど歴史的な出来事の前では、誰もそれを気にする者はいなかった。すべての道路が完全に渋滞していたため、一時的に警察がアクセス道路を封鎖せざるを得なかった。駐車禁止の規制は意味をなさなくなり、すべての駐車場はトラビ、スコダ、ヴァルトブルクで、一席残らず埋め尽くされていた。

東ドイツからの同胞たちを、巨大な支援の波が迎え入れた。警察や消防、ドイツ赤十字(DRK)、連邦国境警備隊、技術救援機関(THW)、そして多くの団体からの支援者、さらには数多くの市民が、ゲストたちが自分たちにとって新しい世界に馴染めるよう手助けした。この日曜日は本来なら店が閉まっている日だったが、ラッツェブルクのすべての店が開店した。市役所の市税窓口や銀行の前には、100ドイツマルク相当の「歓迎金」が支給されていたため、長い列ができた。

こちらから引用

★★★ ラッツェブルク Ratzeburg -2- に続きます

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