誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(101)★★★ブランデンブルク Brandenburg an der Havel -1-

ブランデンブルク州のブランデンブルク・アン・デア・ハーフェル Brandenburg an der Havel をご紹介します・・・なあんちゃって・・・言い切ってから、ヤバいと少しばかり後悔しています。

ブランデンブルクという単語はあちこちで見かけてきました。古くは高校世界史で出てきた「ブランデンブルク辺境伯」・・・辺境伯って意味も分からなかった中で、モンテ・クリスト伯なないですが、なんだかその魅力的な響きにちょっとワクワクしたものです(笑)そしてお馴染みバッハの「ブランデンブルク協奏曲」、ベルリンの「ブランデンブルク門」、ベルリンの周りをぐるりと取り巻く「ブランデンブルク州」、テオドール・フォンターネの「マルク・ブランデンブルク周遊記 Wanderungen durch die Mark Brandenburg」・・・いろいろあります。

その一方で「ブランデンブルクが何故プロイセンなのさ?乗っ取られたのか?」「ブランデンブルクの町が有りながら、なんで首都はベルリンなのさ?」「ブランデンブルクの町自体は今は高々 74,000人くらいの小さな町なのに、なんでそんなに存在感があるの?」「じゃ、ポツダムってどういう位置づけ?」とか・・・いまいちストーリーが腑に落ちないんですね。なんか、大物に手を付けちゃったかなあ(笑)纏まるんだろうか?

場所はベルリン中心部(中央駅)から西に約 70km、鉄道で約1時間のところにあります。途中、真ん中あたりに Posdamがあるので帰りに寄ってみましょう!私がこの時(2003年 5月)に泊まっていた AirAnBのあった Charlottenburg駅からは RE1で一本だったので大変便利でした。

Wappen Lage Data

独語 Wikipedia
Stadt Brandenburg an der Havel の公式サイト
Liste der Baudenkmale in Brandenburg an der Havel

ブランデンブルク辺境伯領 Maximilian Dörrbecker (Chumwa) – 投稿者自身による著作物, using this file by Captain Blood as basis, GFDL, ソースはこちら

今回、ご紹介を始める前に ChatGPTで「ブランデンブルクとプロイセン」の関係を整理してもらいました。なかなかよくまとまっていると思います。生成AIはたまにトンデモナイまことしやかな嘘をつくことが有りますが、今回はまあ信用してよさそうです。しかし、凄い時代になったものですねえ!

■ ご質問
「Brandenburg と Preussen の関係を整理してください」
「Brandenburg an der Havel との関係はいかがですか?」

【昨日お答えした内容(再掲)】
1. Brandenburg と Preussen(プロイセン)の関係

● もともとは「ブランデンブルク選帝侯国」が本体

中世以降、現在のベルリン周辺を中心に Mark Brandenburg(ブランデンブルク辺境伯領) が成立し、これを統治したのが ホーエンツォレルン家。特に 1415 年以降、ホーエンツォレルン家はブランデンブルク選帝侯(Kurfürst von Brandenburg)として帝国内で強い地位を持っていました。

● プロイセン公領は当初「別領地」

東方の プロイセン(公領) は、ドイツ騎士団領が世俗化したもので、ブランデンブルクとは直接関係のない“別領地”でした。しかし 1618年、相続によりブランデンブルク選帝侯家(ホーエンツォレルン家)がプロイセン公領を併有することになります。

● 「ブランデンブルク=プロイセン」の成立

17世紀後半から18世紀初頭にかけてホーエンツォレルン家は両領を事実上統合し・・・

1701 年、選帝侯フリードリヒ3世が「プロイセン王(König in Preußen)」を名乗ったことで、国としては Brandenburg-Preußen(ブランデンブルク=プロイセン)と呼ばれる構造になりました。

● 本体はあくまで「Brandenburg」だった

形式上は神聖ローマ帝国内の領地 → Brandenburg
帝国外の領地(王号を名乗れる領域) → Preußenという二重構造でした。

プロイセンが後に巨大化し、首都がベルリンに置かれたため「プロイセン=ドイツの中心」というイメージが強くなりましたが、歴史的本体は Brandenburg であるというのがポイントでした。

2. Brandenburg an der Havel との関係

● Brandenburg の名の元になった最古の中心地

Brandenburg an der Havel は、ブランデンブルク辺境伯領の発祥地。名称「Brandenburg」の由来となった都市です。神聖ローマ帝国の辺境地として、ここに**スラヴ系ハフェル族の城塞(Brennabor)**があり、これがドイツ語化して「Brandenburg」となりました。

● 後に首都機能はベルリンへ移動

中世後期以降、権力の中心はベルリン=コルベルク(双子都市)に移っていきますが、Brandenburg an der Havel には大司教座や古い城館が残り、“ブランデンブルク”の名の象徴都市として重要な位置を保ち続けました。

【再掲まとめ】

プロイセンの前身は Brandenburg(辺境伯 → 選帝侯国)。
プロイセンの王国化(1701)は、Brandenburg のホーエンツォレルン家が自分の「帝国外領地(東プロイセン)」でのみ王を称した特殊な構造。
Brandenburg an der Havel は “Brandenburg” という国家名のルーツを持つ最古の中心地。

ここでもう一つ、質問を追加します

「印象としてはBrandenburgは辺境伯領の発祥の地としては重要で、分家だった東プロイセン発祥のプロイセンの名を前面に出すようになってからはベルリンに中心が移った感があります。そんな中でポツダムはどういう位置づけでしょうか?サンスーシ宮殿など立派な王宮もありますが?」

おっしゃる通りの歴史的感覚で非常に正確です。**「Brandenburg → Berlin → (東)Preußen → プロイセン王国」**という中心のシフトの中で、Potsdam(ポツダム)は “政治の中心ではなく、王権の象徴として再構築された別都(Residenzstadt)”という位置づけになります。以下で体系的に整理します。

■ ポツダムの歴史的位置づけ:【1】Brandenburg 時代には “脇役”

中世〜近世初期、Brandenburg の政治的中心は Berlin=Kölln にあり、Brandenburg an der Havel は“起源地・宗教中心地”であるのに対し、Potsdam は小さな城塞都市に過ぎませんでした。17世紀に三十年戦争の破壊を受けた後でも、人口は 1,000〜1,500 人程度の小都市で、「領都」「首都」という扱いではありません。

■ 【2】ホーエンツォレルン家が首都ベルリンの“衛星レジデンス”として採用

ポツダムが一気に重要化するのは、**大選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルム(1620–1688)**以降です。

● 理由①:軍事拠点(守りやすい立地)
  ハーフェル川水系の要地で、ベルリンへの“裏側のアクセス”として軍事的重要性がありました。
● 理由②:王族の居住に適した静穏な土地
  ベルリンよりも空気が清浄で、狩猟地にも近く**「王族のプライベート空間」**として適していました。
● 理由③:フリードリヒ大王による都市改造
  とくに フリードリヒ2世(大王) が即位以降、ポツダムは “第二の都(Residenzstadt Potsdam)” として大改造されます。

■ 【3】プロイセン王国(1701–1918)におけるポツダムの役割

結論から言えば、ポツダムは 「王の都」・「軍の都」 として特化します。

● ① 王の個人的な権力を象徴する都市
  サンスーシ宮殿(1747–)・新宮殿・オラニエンブルク通りやバロック街区の建設・オランダ人職人のための Holländisches Viertel(オランダ街区)これらは **ベルリンの行政中心(官僚都市)**に対して**ポツダムは「文化・宮廷・王権の象徴」**という補完的役割を果たすための建設です。つまり
  ★ ベルリン=政治行政の都
  ★ ポツダム=王権と文化の都
という二重首都構造です。

● ② プロイセン陸軍の中枢
  ポツダムは 近衛連隊(Garderegiment) の駐屯地であり、プロイセン軍の精鋭が置かれました。
  “Potsdamer Garnisonstadt”(ポツダム駐屯都市)
  フリードリヒ大王の親衛隊「長身兵の連隊(Lange Kerls)」
  こうした軍事的象徴が集まることでポツダム=プロイセン軍事国家の聖地という性格が強まりました。

● ③ 王家(ホーエンツォレルン家)の生活の中心
  王家はベルリンの王宮よりもポツダムの宮殿群で暮らす期間の方が長い時代すらありました。

■ 【4】19世紀後半:ベルリンが帝都化、ポツダムは“宮廷の都”に固定

1871 年、ドイツ帝国成立(ヴィルヘルム1世が皇帝)によりベルリンは一気に**国家首都(Reichshauptstadt)**として巨大化。ポツダムは、皇帝一家の居住地・宮殿群・軍の象徴都市としての性格を保持したまま、機能的にはベルリンの「宮廷都市」に完全に固定されました。

■ まとめ:ポツダムの位置づけ(あなたの感覚を踏まえて整理)

あなたの捉え方:「Brandenburg は起源地として重要で、プロイセンの名が前面に出てからはベルリンが中心になったように見える」。この流れの中でのポツダムは、次のように総括できます。

● 起源期(Brandenburg 時代):
  → 重要ではない小都市

● 17〜18世紀(Brandenburg-Preussen → プロイセン王国):
  → ベルリンの政治・行政を補完する “王族の宮廷都市” に変貌
  → フリードリヒ大王により文化・哲学・芸術の都に再設計

● 19〜20世紀初頭(ドイツ帝国期):
  → “皇帝と軍隊の聖地”
  → 宮殿群・近衛連隊の街として象徴性が最大化

■ イメージでいうと…

Brandenburg an der Havel:起源地、象徴的ルーツ
Berlin:国家と政治の巨大な中枢(本当の首都)
Potsdam:王権・宮廷・文化・軍の象徴都市(セカンド首都)

まさに「ベルリン=官」「ポツダム=王」と覚えると非常に分かりやすい関係です。

テンプリーン Templin -2- に続きます

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