チェコスロバキアの二つの硬貨 (後編)

チェコスロバキアの二つの硬貨 (前編)からの続きです

下の写真をご覧ください。左は 1938年のもので、チェコスロバキア共和国(Československá republika)という刻印が見えます。左は 1989年のもので、チェコスロバキア社会主義共和国(Československá socialistická republika)という刻印が見えます。前編では左の 1938年のものについて書いたので、今回は右側の 1989年のものについて書いてみます。

1989年といえば「ベルリンの壁」が崩壊した年として記憶されておられる方も多いかと思います。先日亡くなった、当時のソ連のゴルバチョフ書記長の改革開放路線(ペレストロイカ・グラスノスチ)の影響は社会主義諸国の結束にも影響を与え始めていました。ポーランドは独立自主労働組合「連帯」のワレサ議長が主導する民主化が進行しており、ハンガリーはネーメト首相の決断で西側のオーストリアとの国境の鉄条網を一部撤去しました。

一方、西ドイツと国境を接している旧東独とチェコスロバキア社会主義共和国両国の首脳部は、頑ななまでに旧来の社会主義体制に固執していました。とはいえ、市民の間には自由化・民主化を求めるエネルギーが蓄積しつつありました。社会主義体制の総本山ソ連で大胆な改革と情報公開を推進するゴルバチョフ書記長の存在は少なからず市民に勇気を与えていたことは間違いありません。

そんな中、ハンガリーのショプロンという、オーストリアとの国境の町で「汎ヨーロッパのピクニック」というイベントが企画され、多くの東独市民がチェコスロバキア経由でハンガリーにやってきて、そこからオーストリアに脱出していきました。所謂「鉄のカーテン」に穴が開いたのです。

このルートは東独市民の間に広まり、それを目指す市民の数はどんどん膨れ上がっていきます。地図を見れば明らかですが、東独からハンガリーのショプロンに行くにはチェコスロバキアを通過することが必須であり同国内の市民にも少なからず動揺を与えます。また、ハンガリーまで行かずにプラハの西独大使館に駆け込む者も増加していきます。やがてそれはべルリンの壁の崩壊へと繋がっていくのです。

分割されたドイツの東西の壁・ベルリンの壁が崩壊するというインパクトがあまりにも大きくて、チェコスロバキアの「ビロード革命」の知名度はやや低く感じますが、あの当時の東側社会主義諸国の自由化・民主化の空気は当然のようにチェコスロバキアでも開放圧力を産み出し、ベルリンの壁崩壊から 8日後の 11月 17日、市民による革命が起こります。詳しくはウィキペディア或いは「世界史の窓」などをご参照ください。

チェコスロバキアは 1968年に「プラハの春」と呼ばれる改革がブレジネフ書記長率いるソ連の戦車によって蹂躙された過去がありますが、今回はゴルバチョフ書記長は戦車を派遣することはしませんでした。これが、西側では東西の緊張を解き、東欧諸国の民主化を推進したと高く評価され、ソ連の後継国家ロシアでは「偉大なソ連と旧東欧諸国の体制を壊してしまった」と散々な評価に分かれるのです。

さて、東西のドイツは統一を果たしましたが、チェコスロバキアは 1993年 1月 1日を以ってチェコとスロバキアに分かれてしまいました。当然ながら通貨の発行権もそれぞれの国にあり、デザインも別々のものとなりました。そしてその後、スロバキアは 2009年にユーロを導入しましたが、チェコは自国通貨のコルナを維持しています。両国とも EU加盟国で本来はユーロの導入が法的に義務付けられていますが、導入には審査がありチェコの状況はこんな感じです。

こちらに「ユーロはチェコとスロバキアを分かつのか?」という論文があります。歴史的に双子のようにつかず離れずでやってきたチェコとスロバキア・・・通貨政策の違いはこの双子の運命をどこに持っていくのでしょうか?

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