誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(104)★★フランクフルト(オーデル) Frankfurt(Oder) -3-

フランクフルト(オーデル) Frankfurt(Oder) -2- からの続きです

最近流行の丸い車体ではなく、こういう角ばった直線的な車体って好きです(笑)

この手の重厚な建物は大抵は郵便局(Postamt)ですね

カール・マルクス通り。道幅が広く、あまり古い建物がありません。ん?これはひょっとして?

Marienkircheが見えています

Brunnenplatz

Rathaus 改装中のようです

この町の佇まいにふと気になって Wikipediaを調べてみました

ナチス時代

ナチスは、政敵(後に市長となるヴィリー・イェンチも含まれる)を、1933年から1945年までゲシュタポの刑務所だった、コレギエン通りにある歴史的な裁判所刑務所に投獄した。1937年、ベルリンへの高速道路が開通した。

1938年11月のポグロムの際、1822年に当時大規模なユダヤ人コミュニティによって建設されたシナゴーグの内部は、ナチスによって破壊された。

第二次世界大戦の戦闘行動は、1944年初めにイギリス空軍による攻撃があったことを除けば、1945年までこの街は、重要な産業施設や軍事施設がほとんどなかったため、ほぼ無傷で済んだ。ソ連軍によるィスワ川・オーデル川作戦が開始されると、ドイツ人による大規模な難民の波が起こり、フランクフルト(オーデル)もその影響を受けた。この街を通過した難民の総数は 264,000人から 300,000人にのぼった。1945年1月26日、この街は要塞と宣言された。4月19日午前5時29分、ドイツ国防軍によってオーデル川に架かる橋が爆破された。4月20日から、ロシア軍による空襲が始まった。4月21日の午後、要塞の地位は解除され、その1日後に要塞軍の撤退が始まった。4月22日と23日、ソ連の爆撃機がさらに空襲を行った。その結果、特にフランクフルトの中心部で多数の火災が発生した。1945年4月23日の朝、最初のソ連軍部隊がフランクフルトに到達した。それまでの爆撃と、その後数日間続いた放火により、市内中心部は 93%が破壊された。4月24日の夕方、マリエン教会の塔が炎上し、数ヶ月後には教会の丸天井が崩壊した。今日、この都市の建物の40%近くは、第二次世界大戦前に建てられたものである。

1933年から1945年の間に、ナチス独裁政権の結果、何千人ものフランクフルト市民が命を落とした。2022年末までに、そのうちの180人以上にストルパーシュタイン(つまずきの石)とケプフシュタイン(頭石)が設置された。

ソ連占領地域 / ドイツ民主共和国

1945年には、元戦争捕虜や追放者たちのための帰還者収容所グローネンフェルデが設立された。1945年5月には、仮設の橋によってダム郊外との連絡が回復した。ポツダム協定に基づき、フランクフルトは国境の町となった。ダム郊外は分離され、2日間で完全に立ち退き、ポーランドの管理下に置かれた。そこに、現在のフランクフルトの隣町であるポーランドのスルビツェが誕生した。1951年、フランクフルトで、東ドイツとポーランドの国境の標示に関する条約が締結された(1950年のゲルリッツ協定に基づく)。ドイツ連邦共和国は、1970年(ワルシャワ条約)までこの国境を承認せず、1990年にようやく承認した。

東ドイツの州が解散すると、フランクフルト(オーデル)は1952年に地区の中心都市となった。1957年には、オーデル川に架かる高速道路橋が完成した。1950年代から1960年代にかけて、旧市街のレイアウトは大部分が放棄され、市街中心部は再開発された。市庁舎など、ごく一部の歴史的建造物だけが復元された。1970年代から1980年代にかけて、ハンザ・ノルト、ズードリング、ノイベレジンチェンなど、プレハブ建築による大規模な新開発地域がいくつか誕生した。

・・・やはりね!ドイツ戦争被災都市不動産鑑定士(笑)の私からは、どんなに修復してもこの町はかなり手酷い被害を受けたことが見て取れます。市内の中心の 93%が破壊されたとありますが、多くの旧東独の都市と同様、爆撃や砲撃による破壊を免れても、その後に都市を占領したソ連赤軍の手によって放火や破壊されたものと想像します。そしてそれらは戦前の形に修復されることはなく、瓦礫を撤去・解体して Plattenbauなどの安普請の建物が建てられた・・・そういう雰囲気が漂っているのです。

フランクフルト(オーデル) Frankfurt(Oder) -4- に続きます

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