ドイツ放浪記(75):東プロイセン博物館(リューネブルク)

何度か書いてきたけれど、東プロイセンへの思いが募った背景をもう一度書いておこう。下記は 1992年当時にしたためたメモからの抜粋である。
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 リューネブルグで私達が借りていた家の庭続きの土地に、もう一軒の家があり、大家さんの母親ディートリッヒ婆さんが一人で暮らしていた。軽いアルツハイマーを煩っていた彼女は最後まで私の簡単な名字さえ覚えられなかったのではないかと思うのだが、温厚な老婆で、毎日うちにやってきては家内と編み物をしながらお茶を飲んだり、子どもと遊んだりするのが楽しみのようであった。

 そして私がいる週末は、オストプロイセンの話をすることに決まっていた。エルビングという町のことを活き活きとと語った。ひとしきり話しては “So schön war Ostpreußen !”  と、遠くを見ながらため息をついた。毎週のように話を聞いて、そいつは一度行って見なきゃ...とは思うものの、東西の壁がある時代であり、その向こうのポーランドの一番東の端、あるいはソ連領の東プロイセンはあまりにも遠かった。

 東プロイセン博物館は当初は町のはずれにあったのが、私がリューネブルグに住み始めてから、町なかに煉瓦造りの建物を新築して移転してきた。すぐ近所だったので時々、展示のテーマが変わるごとに覗きに行っていたのだが、常設の展示も徐々に増えてきていた。かつて東プロイセンに住んでいて追われてきた世代がだんだん減っていくのとは逆に、ますます「忘れ難き故郷」の博物館は充実していくようであった。

 ある日、この博物館から出てきたところで、老婦人に呼び止められ、「あなたは東プロイセンに興味がおありなの?日本人?なんと、素晴らしい、Ich lob Sie !」と、殆ど涙を流さんばかりの表情で手を握りしめられた。確かに...ドイツ人の若者でももはや興味を示さないであろう東プロイセンなどという所をを、まして縁もゆかりもない外国人でこういう思い入れを持って見ているというのは妙なものかもしれない。

 ヴァルター・ウルリッヒさんも、そんな私に興味を抱いた一人だったようだ。町の日独協会の新年会で知り合ったウルリッヒさんの背広の襟には、琥珀の地に銀細工でヘラジカの角の形をあしらった東プロイセンのシンボルのピンバッジがついていた。東プロイセン同郷人会のバッジだった。

 東プロイセンのご出身なんですか?
 ああ、このバッジかい..よく知ってるね

 奥さんや友人達に変な日本人も交えて、ひとしきり東プロイセン談義で盛り上がった。

 その後、しばらくして電話をもらい75歳の誕生日に招待された。

大きな館を作りかえた田舎のレストランにハンブルグやハノーファーなどからも兄弟、親戚、友人が集まって一番年上の兄ウルリッヒさんの誕生日を祝う暖かいパーティだった。

 日本でも、東京に住んでいると、もう親戚つきあいなどというものから縁遠くなってしまっていた。こういうパーティに招かれて、東プロイセンという場所と心のつながりを持つ人たちの中で、ドイツ語で交わされる想い出話などを聞いていると、ワインの酔いの中で...自分もひょっとしたらこの人達の親戚なのではなかろうかという錯覚に陥りそうになった。

 そして東西ドイツの壁が崩壊した。東プロイセンに出かけることにした。是非とも行ってみなければ...

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