誰も知らないドイツの町 Unbekannte deutsche Städte(101)★ブランデンブルク Brandenburg -8-

ブランデンブルク Brandenburg -7- からの続きです

聖カタリナ教区教会(St. Katharinen)

1217年に初めて言及されたノイシュタットの教区教会は、十字形の単身廊の野石造りの教会であり、その痕跡は西側の建物に今でも見ることができます。
この教会の新築は、後期ゴシック様式のレンガ造りの傑作です。1380年代に、東側に屋根構造に保存された彩色されたトレーサリー・ギベル(尖頭アーチ)で締めくくられた、ホール型の身廊の建設が開始されました。1395年には、北側礼拝堂が建設されました。ここには、1401年の献堂式に関する碑文があり、シュテティンの有名な建築家、ハインリッヒ・ブルンスベルクが建築家として名指しされています。北側礼拝堂と身廊は、この年に完成しました。特徴的なのは、内側に引っ込んだバットリ、平滑で、トレーサリーで区切られた外壁、そして内部にある造形のある丸天井です。計画されていたバシリカ式聖歌隊席の代わりに、1427年までに回廊式聖歌隊席が建設されました。1494年に改築された古い西塔は、1582年から 1592年にかけて崩壊したため、再建されました。

1864年から 1865年にかけて外装、1842年と 1911年から 1912年にかけて内装の修復が行われました。1970年から 1992年にかけて行われた改修により、後期ゴシック様式の空間構造が復元されました。屋根、塔、外壁の修復は2004年に完了しています。独語 Wikipediaはこちら

Von Gregor Rom – Eigenes Werk, CC BY-SA 4.0, ソースはこちら

宗教施設かと思ったら・・・ダートパブでした(笑)

この橋から見える風景です。この後 Altstadtのほうに歩いていきます

ブランデンブルク、昔と今:旧市街にある「コミュニケーション」という路地の名前の由来

ブランデンブルクに住むほとんどの人は、旧市街にある「コミュニケーション」という名前の小さな路地を知っています。しかし、その名前の由来を知っている人はごくわずかです。

同様に、「コミュニケーション」という名称の由来についてもご説明いたします。この路地の名前は、かつて城壁に沿って延び、城門と城門をつないでいた道の一部が残っていることに由来しています。ラテン語の「communico(つなぐ)」から派生したものです。このコミュニケーション路地は、旧市街の「長い橋」にある新門と、旧市街のヴァッサーター通り(Altstädtische Wassertorstraße)の名前の由来となったヴァッサーター(水門)をつないでいました 。1780 年頃から存在していた「ウォーターゲート宮殿」には、ブランデンブルクで名高い皮なめし業者スピッタ家が住み着き、その皮革・接着剤工場は、グラベン通りとヴェネツィア通りから旧市街のウォーターゲート通り 6 番地(1881 年の住所録)に移転し、さらに拡大しました。おそらく「コミュニケーション通り 2 番地」にもあったと思われます。おそらく、リッター通り 1 番地にある「ハーベルテラス」の隣にある複合施設で、これは一時、スピッタ家の所有物でもありました。スピッタ家は間もなく皮革工場をノイエンドルファー通りに拡張したため、コミュニケーション通りにある小さな皮なめし工場を売却した可能性があります。後の住所録には、この路地に3つの番地しか記載されておらず、1920年代の住所録によると、そのうちの1番は、皮なめし職人ヴィルヘルム・ケルブ氏の「グレースレザー工場」でした。写真端にある大きな建物は、目撃者によると、1933年から1945年まで存在し、「約50人の元気な裁縫師」を雇用していたフランケ&モッセ縫製工場だったと思われます。所有者はユダヤ人であったため、1940年代以降、その痕跡はまったく見られなくなりました。この工場は1945年に爆撃により破壊されました。その跡地には、現在ではモダンな一戸建て住宅が建っています。隣に残っている工場跡は、2008年から「ペンション・ハーフェルフロース」としてブランデンブルク州の観光業に貢献しています。

ブランデンブルク Brandenburg an der Havel -9- に続きます

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