- 2025-8-8
- 日記的備忘録
前回のホーエンヴッツェンを少しオーデル川沿いに北上するとシュヴェート(schwedt)という人口3万人くらいの町に出ます。ここは旧東独時代には石油精製を初めとした諸工業の中心で、日本人も駐在していました。また軍事法廷の所在地で、兵役拒否者や反体制の人達を収容する刑務所があることで恐れられてもいました。
この辺りはオーデル川が氾濫を繰り返した資源となっており、土手から対岸のどれまでは 2kmほどもあります。
1992年 4月 17日、帰任を前にした私は最後のイースター休暇をベルリンに泊ってこのあたりをドライブしていました。そこで前章のホーエンヴッツェンの閉鎖されていた端から川沿いに少し北上して偶然国境の検問所にでました。
ドイツ側の検問は簡単で、パスポートを持っているかどうかのチェック程度。ポーランドのビザを持っているかどうかは関知していない・・・そんな感じでした。
そこでダメもとでドキドキしながらこの橋を渡り、ポーランド側の検問所で「ビザ発給してもらえますか?」と聞いたらなんとオーケー!
やった(笑)マジかよ!そんなに簡単なの?思えばこれが私の初ポーランド入国でした。
ポーランドの国境警備兵はフレンドリーな感じ・・・ちょっと垢抜けない制服が逆にいい味出してます(笑)
川沿いを北上してシュテティン(Stettin)の市域に入ります。ポーランド語ではシュチェチン(Szczecin) もう見るものなんでも珍しくワクワクでした。並行して走っていた鉄道には蒸気機関車が貨物列車を牽いていました。1992年、日本では絶滅していた蒸気機関車です。
写っているクルマは「東独製のトラバント」「ソ連製のラダ」「ルーマニア製のダチア」など・・・ああ、ポーランドに来たなあという感慨!
泊まったホテル。遠景に「Bazylika Archikatedralna pw. św. Jakuba Apostoła」という有名な教会が映っているので、このホテルも特定できるかも・・・部屋代は DM40.-と格安!ポーランド Zlotyでなんと 160,000.-!その後ポーランドはデノミをしてマトモな数字になります。部屋はそこそこ快適でしたが、安物のプラスチックの傘に裸電球で、真空管ラジオからボソボソとしたポーランド語とショパンのピアノ曲が流れてきた時には涙が出ました。
ポーランドではイースターに子供たちが大人に水を掛け、やめてもらうにはちょっとしたお小遣いをあげる・・・みたいな習慣があるようで、DM20.-(当時のレートで2,000円くらい)の Zlotyをあげたら大喜びしてました(笑)
今は国境検問も廃止され往年の面影はありませんが、遠景の橋が少し高くなっている構造は当時のままのようです。