- 2025-6-9
- ブログ
国境あちらこちら(2):ポーランド・ロシア国境 その2からの続きです
上の地図はリューネブルク駐在時代に私が住んでいた Ebensbergという住宅街の地図です。字か小さいのでクリックして見てください。ブレスラウアー通り・メメラー通り・オルテルスブルガー通り・グンビンナー通り・・・など、ほぼすべての通りに「失われた旧ドイツ領」の地名が付けられています。こんな場所に住んだのが私が「失われた旧ドイツ領」に関心を持つようになった遠因でもあります。
リューネブルグで私達が借りていた家の庭続きの土地に、もう一軒の家があり、大家さんの母親ディートリッヒ婆さんが一人で暮らしていました。軽いアルツハイマーを煩っていた彼女は最後まで私の簡単な名字さえ覚えられなかったのではないかと思いますが、温厚な老婆で、毎日うちにやってきては家内と編み物をしながらお茶を飲んだり、子どもと遊んだりするのが楽しみのようでした。
彼女もまた東プロイセンから追放されてきた数百万人のうちの一人だったのです。そして私がいる週末は、東プロイセンの話をすることに決まっていて、かつて住んでいたエルビングという町のことを活き活きとと語てくれました。ひとしきり話しては “So schön war Ostpreußen !” と、遠くを見ながらため息をついて・・・毎週のように話を聞いて「そいつは一度行って見なきゃ」...とは思うものの、東西の壁がある時代であり、その向こうのポーランドの一番東の端、あるいはソ連領の東プロイセンはあまりにも遠かったのです。
東プロイセン博物館は当初は町のはずれにあったのが、私がリューネブルグに住み始めてから、町なか移転してきました。すぐ近所だったので時々、展示のテーマが変わるごとに覗きに行っていましたが、常設の展示も徐々に増えてきていました。かつて東プロイセンに住んでいて追われてきた世代がだんだん減っていくのとは逆に、「忘れ難き故郷」の博物館はそれに抵抗して「故郷の記憶を忘れないように」と充実していくようでした。
ある日、この博物館から出てきたところで、老婦人に呼び止められ、「あなたは東プロイセンに興味がおありなの?日本人?なんと、素晴らしい、Ich lob Sie !」と、殆ど涙を流さんばかりの表情で手を握りしめられました。確かに...ドイツ人の若者でももはや興味を示さないであろう東プロイセンなどという所を、まして縁もゆかりもない外国人でこういう思い入れを持って見ているというのは妙なものかもしれませんね。
ヴァルター・ウルリッヒさんも、そんな私に興味を抱いた一人だったようです。町の日独協会の新年会で知り合ったウルリッヒさんの背広の襟には、琥珀の地に銀細工でヘラジカの角の形をあしらった東プロイセンのシンボルのピンバッジがついていました。東プロイセン同郷人会のバッジです。
東プロイセンのご出身なんですか?
ああ、このバッジかい..よく知ってるね
その後、しばらくして電話をもらい75歳の誕生日に招待されました。
大きな館を作りかえた田舎のレストランにハンブルグやハノーファーなどからも兄弟、親戚、友人が集まって一番年上の兄ウルリッヒさんの誕生日を祝う暖かいパーティでした。
日本でも、東京に住んでいると、もう親戚つきあいなどというものから縁遠くなってしまっていました。こういうパーティに招かれて、東プロイセンという場所と心のつながりを持つ人たちの中で、ドイツ語で交わされる想い出話などを聞いていると、ワインの酔いの中で...自分もひょっとしたらこの人達の親戚なのではなかろうかという錯覚に陥りそうになったものです。
そして東西ドイツの壁が崩壊!東プロイセンに出かけることにしました。是非とも行ってみなければ...
国境あちらこちら(4):ポーランド・ロシア国境 その4に続きます